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恥ずかしい過去の恋話 第二話 (完結)

本を借りる口実で、先輩の家に通っていたんだと思う。気づかないフリをしていたけど、ずっと前から先輩が好きだった。先輩はわたしのことをどう思っていたかは知らないが、今思うとちょうどいい存在だったんだと思う。自分に好意を寄せている会社の後輩が頻繁に家に来るなんて、相手にするのにちょうどいいじゃないか。特に拒絶する理由もなかっただろうから、すんなりと受け入れた、ただそれだけのこと。
2011年3月11日14時46分18秒頃、わたしは取引先の会社に上司と訪問している最中だった。顧客との打ち合わせ中、突然グラリと揺れを感じた。目眩にしては揺れ過ぎやしないか。周りもどよめいてる。揺れはなかなか収まらない。その時のわたしは、数日で24歳になるところだったが、もしかするとなれないまま人生が終わってしまうのではないかという不安に襲われた。長い揺れの最中、神様わたしはまだ生きたいのです、好きな人と結婚もしたいのです、などと思いつく限りの願いを並べ心の中で祈っていた。ようやく揺れもおさまり、予断を許さぬ状況ではあったが帰宅できることになった。訪問先へは車で来ていたので、怯えながらもその日はなんとかして運転し家に辿りつけた。当時はまだ今のように連絡手段としてLINEが使われてなかったので、彼にEメールを送ってみたが、返事はなかった。一旦自分の家に帰り、倒れた家具などを元に戻し軽く片付けた後、彼の家に向かった。アパートの鉄骨階段を上り、ドアノブをゆっくり捻ると鍵は開いていた。やや緊張しながらドアを開ける。暗い。一応「玄関」である小さな正方形のコンクリートのスペースで靴を脱いで上がった。すぐ左手に台所とお風呂場があって、正面奥に居間がある。台所と居間を仕切る磨りガラス扉が閉まっていた。磨りガラス扉には、小さな灯りがぼんやり浮かび上がっている。重い扉をゆっくりスライドさせ、奥に目をやると異常な光景が目の前にあった。部屋の中はいつも以上に散らかっていて、缶ビールの空き缶やペットボトル、カップラーメンやコンビニのおにぎりなど食べ終えた残骸が机と床の上に散らばっていた。机の上にある豆電球の電気スタンドの灯りが、部屋の散らかり具合を明らかにしていた。「ど、どうしたの?!」わたしはついに声を発した。
地震の状況を伝えるラジオのアナウンサーの声がせかせかと狭い部屋に響いている。せんべい布団の中で縮こまっていた彼が顔を出した。「大変なことになったね!!!」ギャグではなくずいぶんと切迫した表情をしている。こんなにも動揺した彼は見たことがなかった。「うん。。こわいよね…」部屋の散らかり具合を見回しながら返事した。いつも冷静な彼がこんなにも取り乱していたので余計に不安になってきた。彼は制作スタッフだったので社内にいることが多かった。その日も社内で作業をしていて地震があり、すぐに家に帰ってきたらしい。慌てて近くのコンビニで食料を買い込んできたのだ。
その日の夜は、彼の家の冷蔵庫にあるもので簡単に炒め物やらスープをつくり、ご飯を炊いた。いつものように小さな楕円形の卓上テーブルに料理の乗った小皿を並べ、向かい合って食べた。お風呂は別々に入ったが、いつものようにセックスをし、いつもより寄り添って、手を繋いで寝た。夜中に余震があったりして不安ではあったが、彼が隣にいればそれだけで満たされた気持ちになった。一緒にいれば、乗り越えていけるだろうとも思っていた。震災中は、いつものガソリンスタンドでガソリンを入れるのも一苦労だった。ガソリンスタンドから5キロ以上、長蛇の列は続いていた。私たちは近隣の観音山の山道にいた。彼は自分の車(ジムニー)に、わたしは会社の車(NOTE)に乗っていた。ガソリンスタンドに辿り着くまでは数時間かかるので、お互い別々の車に乗り列に並びながら待っている間、メールで会話したりしりとりをして遊んでいた。今思うと不思議な感じだが、当時はスマホでなくガラケーだったのでメールか電話を使うのが主だった。これといって大した内容ではないが、彼とのメールはいつも楽しかった。震災により世の中の雰囲気は落ち込み気味で不安や不便さを感じていたものの、それなりに楽しんで日々を過ごすようにしていた。だが、その気持ちも長くは続かず、徐々に苦しくなっていった。
デートの途中、一度だけ彼のかかりつけの病院に立ち寄ったことがある。「ちょっと待ってて」そう言ってジムニーの運転席のドアをバタンと閉めた。まだ付き合い始めたばかりだったので、何の病院かはわからなかったが、特に気にしていなかった。後日、彼の家で彼の帰りを待っているとき、病院から貰った薬が机の上に置いてあったので、何気なく見てみた。薬が入っている袋の病院をすぐ目の前にあるパソコンで調べてみると、精神科であることがわかった。持病の薬を飲んでいるということは知っていたが、心の病気だとは予想していなかった。仕事も問題なくこなしていたし、まだ彼のことを深く知らなかったこともあって病気に気がつかなかった。彼が仕事から帰ってきて、夕食を食べた後それとなく聞いてみた。「不安神経症なんだよね」とタバコをくわえ火をつけながら、彼が言った。詳しく聞くと「うつ病」とは異なるらしい。不安や心配で塞ぎ込んだり、引き籠りがちになったりする。病気になってから、5年くらい経ったと言っていたが、以前に比べるとだいぶ症状は落ち着いていて、薬を飲んでいれば問題ないらしかった。平日は仕事があるので必ず薬は飲んでいたようだ。付き合った当初は気を遣って休日でも飲むようにしていたみたいだが、病気のことをわたしに打ち明けてからは、飲まなくなった。身体がだるく気分が乗らない日もあるようで、休日は寝てることも多かったし、メールや電話をしても返事が遅かった。無理しなくていいよと伝え、彼が調子の良いときに会うようにした。一緒にいる時間はどんどん減っていき、彼のわたしに対する愛情は次第に薄れていったように感じた。わたしはそんな現実を受け入れたくなかったので、彼に必死にしがみついた。
彼と付き合う前、わたしは遠方に付き合っていた人がいた。その人のことを嫌いになったわけではなかったが、彼に対する好きのほうがどうしても大きかったので、別れることにした。今思うと、結婚も視野に入れてくれていた人だったのに、別れるだなんて、なんと勿体の無いことをしたんだろうと思うが後悔先に立たずである。23歳のわたしがした選択は、数年先の未来など考慮されていたはずがない。
彼の家に上がっても、すぐに「帰ってくれ」と言われるようになった。彼の放つ言葉がなかなか自分の中に落とし込まれなくて、素直に聞き入れられなかった。淋しくて毎日彼の家に訪れては追い出された。それでも今は気分がすぐれないだけで、きっとまた調子がよくなるだろうと楽観的に考えていた。そんなことを繰り返す日々が続いたある日の夜。衝撃的なことが起きた。あれは金曜の夜だった。仕事が片付き、帰りがけに彼の家に寄ることにした。アパートの鉄骨階段をタンタンと音を立てて上り、ドアノブを捻って開けると、玄関にピンクベージュ色のパンプスが行儀よく並んでいた。奥からクスクスと女性の笑い声が聞こえてきた。サーっと脳の血液が一気に下に流れ落ちてきて思考が停止した。慌ててドアを閉め、その場から逃げるように立ち去った。見知らぬ女が彼の家に上がり、楽しそうに笑っている。わけがわからなかった。一旦、自宅に戻り深呼吸してから電話をかける。auお留守番センターに繋がる。焦りとともに涙が溢れてきた。彼から折り返し着信があったのは1時間後だった。「どうした?」いつになく低いトーンだ。「あの女の人は誰?」第一声にこの台詞を口走ってしまい、カッコ悪さと恥ずかしさでいっぱいだったが、それ以上に余裕がなかった。「誰って、友達だけど。というか、勝手に家に入ってこないでよ」あまりの突き放し具合に耳を疑った。自分はこの人の彼女ではなかったんだっけ?酷い。でもここで引き下がりたくはなかった。「わたしたち付き合ってるよね?わたしは家に入れてくれないのにその人なら入れるんだ?」怒りを抑えているので声が震えてしまう。数秒の間があり、彼が答えた。「そんなこと言うんならもう付き合うの辞めよう」彼は、淡々とした口調で、もう切るねと言った。電話が切れた後、両目から涙が一気に溢れ出した。気が済むまで涙を流すと、だんだん落ち着いてきた。別れたのか?ずいぶんと呆気なかった。テレビをつけると、芸人達がガハガハと大口を開けて笑っている。こういう時に楽しそうな人達を見ても、ぼんやりとした心には何も響かない。お湯を沸かし、家にあったカップヌードルを食べた。いつもよりしょっぱく感じた。すべてが洗い流されるように熱めのシャワーを頭から浴びた。本を読んでも内容が全く頭に入ってこなくて、何度も同じ一文を繰り返し目で追ってしまう。なにかをするのを諦めて寝た。
翌日になっても、彼のことがまだ好きだった。もう勝手に好きでいればいいやと思えてきた。気分転換にカレーをつくった。何も考えずに野菜をどんどん切っていく。少しだけ気持ちがスッキリするような気もした。だが、明らかに一人分ではない量をつくってしまった。別れたけれど、彼に執着していたわたしは恐ろしいことを思いついた。一人前のカレーとご飯とサラダをタッパーに詰めて家を飛び出した。彼の家のドアの前にそっと置いた。後から冷静になってみるとストーカーみたいで気持ち悪いことをしたと思う。でも、食べ終わった後のタッパーを貰いに行くという、彼と会う口実ができるのを期待していた。それに彼なら食べてくれるだろうという自信があった。自分をいいように使ってくれて構わなかった。案の定、彼はわたしのつくったカレーを食べ、わたしはその知らせを聞くと、タッパーを貰いに胸を躍らせて彼の家に向かった。自分を捨てた飼い主に会いに行く野良猫のようだった。当時のわたしは狂うほど彼を想っていた。
彼に対する行為は徐々にエスカレートしていった。ジムニーに乗って出かける彼を走って追いかけたこともあった。助手席にまた見知らぬ女性を乗せていたのが許せなかった。別れたはずなのに、別れたことを理解しようとしなかった。自分以外の女性が彼に相応しいとは思わなかったからだ。ジムニーの助手席に女を乗せ、橋を渡る彼を偶然近所で見かけ、とにかく走って追いかけた。ジムニーは彼の家の駐車場に入っていく。助手席の女が勝ち誇ったような顔で、彼のアパートの2階から惨めなわたしの姿を見下ろしていた。それ以上は追いかけられないと思い、尻尾を巻いて逃げた。家の外で待ち伏せしたりしたこともある。もはや好意ではなく、執着と意地だった。
気が付くと、体の関係になっていた。彼と少しでも繋がっている感覚になれるならばそれでもよかった。行為が終わると、家から追い出された。その繰り返しだった。身も心もぼろ雑巾のようだった。鏡で自分の姿を見ると、目に力がなく魂が抜けたような酷い顔をしていた。さすがにそんな状況から抜け出さなければ、自分が壊れてしまうと思うようになっていた。
家で一人携帯を見ていると、彼に電話をかけたくなる衝動に駆られた。電話番号を消すことにした。なにかあった時のためと、消す前にメモに番号を書いて小さく畳んで、瓶の中に入れた。手の届きにくい棚のできるだけ奥のほうにしまい込んだ。だが、ふとした時に声が聞きたくなり、メモの入った瓶に手を伸ばし、番号にダイヤルしてしまう自分がいた。失敗に終わる。今度は、瓶自体を処分することにした。しかし、もはや彼の番号を覚えてしまっていたのでそれも意味がなかった。
それから2か月が経過し、わたしは会社を辞めることを決心した。彼と距離を置きたいと思った。やっとわたしも正常になってきていた。引っ越しもすることにした。地方と東京なのでなかなか会えない。それでいい、と思った。引っ越し当日、彼から卓上のデジタル時計をもらった。時間はもう戻せないと思った。それでいい。彼を忘れたいから、どんどん時が経ってほしかった。引っ越しした後も、わたしの中で彼の存在は完全には消えてなかったが、月日が経つごとにだんだんと忘れられるようになっていった。
引っ越ししてから数年が経ち、東京の新しい職場にも慣れた頃、彼から連絡があった。facebookのメッセージでなにやら怪しい内容だった。記憶がおぼろげではあるが、宗教の勧誘らしき内容だった。彼は宗教にハマってしまっていた。起業も失敗したらしい。元同僚がそう言っていた。自分と別れた後、見事に転落していた。元々、心が弱かったから心配はしていたけど。でも、もはや関係なかったし、なんとも思わなかった。今思うと、自分でも信じられないくらい本当に恥ずかしい経験をしたが、そういう過去の汚点があって、今のわたしがあると思う。そしてこうやって書くことで、たまに思い出してしまう、もやもやした気持ちの成仏ができた気がする。