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恥ずかしい過去の恋話 第一話

23〜24歳の頃の恋愛はもう思い出したくない。めちゃくちゃだった。誤ってふと思い出してしまった時には、首を横にブンブン動かして記憶を振り払っている。当時勤めていた会社から、先輩もわたしもちょうど歩いて10分程の距離のところに住んでいた。自宅から先輩の家が近かったこともあり、会社帰りに先輩の家へ寄っては、デザインの本や先輩おすすめの本(難めの哲学的な本が多かった)をよく借りたりしていた。超近所にある居心地のよい図書館のようだった。本棚に収まりきらず部屋の至る所に本が積み上げられていた。どれも自分では読んだことのないものばかりで、見ていて飽きることはない。デザインやコーディング、哲学や宗教、写真集などの知識が多種多様に散らばる光景。先輩の思考が露わになっている感じがして、ドキドキした。
先輩は、田嶋コーポというやや錆び付いた二階建ての木造アパートに住んでいた。外観の佇まいから圧倒的昭和感が漂っていた。なんとなく、コントやミニドラマのセットにありそうなザ•日本のアパートという感じで。玄関のドアの取手は丸くて、鍵もおもちゃみたいなチープさがある。先輩は普段あまり鍵をかけないと言っていた。このあたりでは、鍵くらいかけなくても問題ないんだと何故だか自信満々に言われた。部屋に入ってすぐにキッチンがある。「キッチン」というよりも「台所」という言葉のほうがぴったりだったけど。お風呂も見たことがなかったシャワー付きのバランス釜で、お湯を沸かすにはツマミをひねりながら、カラカラとうるさい音を立ててレバーをまわす必要があった。湯船もチラッと見た感じ、大人1人がちょうどすっぽりとハマるサイズだった。色褪せた水色の湯船。先輩がここにこじんまりしながら入ってる姿を想像すると、クスッと笑えてきた。
先輩の家にはテレビがない代わりにラジオがあった。本を借りに行くと、いつもラジオが心地よいボリュームで流れていた。
その日もいつものように先輩の家に立ち寄った。金曜日の夜、職場の飲み会の帰り道だった。家に入るや否や、先輩がラジオのスイッチをONにした。サザンオールスターズの銀河の星屑が流れている。「これ、いい曲だよね」先輩は、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュっと開けた。「まだ呑むんですか〜」にこにこして、機嫌の良い先輩に対し、わたしはやや呆れていた。自分は数杯飲んだだけでは、あまり酔わないタイプなので、意識はハッキリとしていたが、先輩はお酒の量が多いので、ほろ酔い状態だった。何かを察知したわたしは、先輩にあまり近づかずにソファの下に腰を下ろした。先輩は、会話を続けながら近づいてきて、わたしの隣に座った。お互いいつものようなテンポで話をしていたが、この日はなにかが違った。会社の先輩と後輩ではなく、お互いを男と女として意識していた。突然会話が止まり、沈黙が生まれた。無言で見つめ合う。気がつけば、先輩の唇がわたしの唇を覆っていた。そのあとはもう後悔する間もなく、するりとコトが進んでいった。終わったあと、裸になって、畳の上に転がりながら聞いた。「酔っていたからですか?」先輩は、天井を見つめながら、とても淡々と「酔いなんかとっくに冷めていたよ」と応えた。
その日から私たちの”社内恋愛”は静かに始まった。田舎の小さな広告代理店だったので、すぐに知れ渡ってしまいそうだったが、意外にも誰にも気づかれなかった。仕事中はいつも通りお互いの業務に専念し、先輩と後輩のままで居た。仕事が終わると、だいたい先輩の家に帰り、一緒に夜ご飯を食べた。2人ともお酒が好きだったので、金曜の夜は晩酌をした。バランス窯の小さなお風呂にも一緒に入った。お湯の入れ方に最初は戸惑ったが、何度かするうちに自然と覚えられるようになった。2人が湯船に浸かると当たり前のようにお湯がどかっと溢れ出すので、いつもケラケラと笑っていた。仕事の辛いことや嫌なことが、一気に吹き飛んでいくような爽快な気分になった。どこにでもいるような、ごく一般的なカップル。なんでもないことを共有し、笑い合える、こんな毎日が続いていけばいいんだと思っていた。でも。そう思っていたのは、わたしだけだったんだ。