20年の日本語教員生活を振り返って
自己紹介がてら、これまでの日本語教員生活を振り返ってみました。
私が初めて日本語教師として働いたのはトルコの大学でした。
その大学は日本語学科が立ち上がって5年ほどで、8名の教師全員が日本人、授業は完全直接法という特殊な環境でした。
入学者は毎年30~40名ぐらいで、8割程度は1年でN4合格レベルになります。残りの2割は留年して、そのうちの8割程度は翌年N4合格レベルとなりますが、それ以外の数名は退学を余儀なくされます。
日本語教師経験が全くないひよっこの私が、いきなりそんな重責を背負うことになり、最初はとても苦労しました。
実は、学生時代の一番の苦手科目は国語で、漢字力、語彙力、読解力のどれも日本語教師としては平均以下だったと思います。
そんな私が、学生に対しての責任を果たし、学生からの信頼を得るためには、とにかく、しっかり準備して、わかりやすく説明しなければならないと考えていました。
120分の授業のための教案づくりに要する時間は6~9時間ぐらいで、
土日のうちのどちらかは6時間は寝るようにしていましたが、他の日の平均睡眠時間は4時間ぐらいでした。
当時の学生たちは「先生がそんなに忙しいはずがない、嘘だ」とよく言っていましたが、自分でもよくそんな生活を何年も続けられたなあと思います。
その甲斐あって、学生たちとの関係も良好で、教師として充実した日々を送っていました。
しかし、
そんな生活を続けているうちに、徐々に
「どんなにうまく説明しても、それが学習者の日本語力につながらなければ意味がない。うまく説明できたというのは、学生をわかった気にさせただけで、教師の自己満足にすぎない」
と思うようになっていきました。
そして、
うまく教えるためのテクニックと、
いかに学習者の興味を引いてその気にさせるのか、
おいしいアメとは何か、どのようなムチが学習者に効くのか
ということを考えるようになりました。
その後大学院に進学し、大学院では、条件表現を学習者にわかりやすく教えるためにはどうすればいいのかということを研究していました。
それなりに充実した日々を過ごしていましたし、成果も上げたつもりですが、大学院には、文法よりも学習環境をいかに整えるかを重視する教師が多いことに違和感を受けていました。
私自身、大学院時代に学習環境の大切さも理解したつもりでしたが、大学院修了後も徐々に文法が軽視されていく時代の流れに悶々とする冬の時代に突入します。
ロシア、インドネシア、ブルガリア、タイ、どこも楽しく仕事をさせてもらいましたが、私の頭の中の霧が晴れることはありませんでした。
そんな日々が続いていたエジプト時代に、私は自己啓発系のYoutubeを見たり本を読むようになり、ある頃から、トルコ時代の学生のことをよく思い出すようになって、ある気付きを得ます。
★非常に努力家のある学生は、入学以来常にクラスのトップの成績で、日本留学の夢を目をキラキラさせながら熱く語る学生でしたが、なぜか最後の最後で留学できなくなってしまい、その後は目の輝きを失って、留年までしてしまいました。
★反対に、ある学生は、聡明で明るい好青年でしたが、日本に留学して自分を見失ってしまいました。
★頑張って常にクラスのトップクラスだった素朴な感じのある女子学生は、ある頃から急に日本語に興味を失って、ただのおとなしくて目立たない学生になってしまいました。
★そして、成績はトップクラスとまでは言えないまでも、日系企業に就職することを目標に、5年間ずっと努力し続けたある学生から、
思い通りの就職ができず、精神を病み、何のために日本語を学んだかわからといったことが綴られたメールを卒業後何年も経ってから受け取るということがありました。
私に気づきを与えてくれたきっかけは、この4番目の教え子からもらったメールでした。
メールを読み、
日本語が上手になれば幸せになれるはずだと安易に考えていた当時の自分を恥じました。
また、学生のためではなく、
実は、自分の価値を高めるために無理やり日本語を押し付けていたのではないか、
教師の教授テクニックとアメとムチで日本語力を高めても、日本語を学ぶ意味を学習者自身がわかっていなければ、途中で挫折したり、留学や就職がゴールだと思い込み、その後目的を見失って彷徨う学生を生み出してしまうのだということに気づかせてくれました。
これらの学生には、本当に申し訳ないことをしたと思っています。
私が日本語を学ぶ意味に気付かせることができていれば、
彼らも目の輝きを失うことはなかったはずです。
「学習者主体」「自律学習」なんて言われるようになって久しいですが、
どちらも、やらされているという気持ちを学習者が持っていたのでは成立しません。
何のために日本語を学ぶのか、日本語を学ぶことで将来どうなりたいのかといった質問を自らに投げかけ、
その答えを自らが見つけ出すしかないのです。
私たち教師は、その手伝いをすることしかできません。
そして、現在は、学習者に日本語を学ぶ意味に気付かせるだけではなく、
生きがいや人生の意義にも気付かせることができる教師になりたいと考えています。
そのためには、私自身が常にワクワクしながらいろいろなことにチャレンジする姿を見せるしかないと思っています。
私は
●文法などを深く理解し、わかりやすく説明する力も大切だと思います。
●学習者のやる気を引き出しながら、日本語力を高める技術も大切だと思います。
●学習者が自ら目標を立て、それに向けて自律的に学習できるように導く力も大切だと思います。
●教師自身が人生を楽しむことで、人生の意義について気付かせることも大切だと思います。
この4つは、部分的には相反することもあると思いますが、
大局的には調和できるものではないかと思っています。
私が目指すのは、
「私に関わってくれた全ての人を豊かにするための日本語教育」です。
上の4つはそれを達成する為の手段にすぎません。
このことがわかってから、私の頭の中の霧が晴れ、
今まで断片的に存在していた様々な知識が一つにつながったような感覚が生まれ、
今の仕事を以前より楽しむことができるようになりました。
多くの人にこの気持ちを共有していただけるよう、
これからも発信していきたいと思います。
長文にお付き合いくださり、ありがとうございます🙇
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