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古井由吉 「杳子隠妻」 を読んで

ピース又吉さんのYouTubeで紹介されていて興味があり読んでみた。

普段読書はする方ではあったけど、最近めっきりしてなかったから久々(約半年ぶり)の小説購入

文学的な表現というのが正しいかわからないが、事細かに情景描写があの手この手を使って描かれていて、本を読んで初めて、読んでいるだけで勝手に情景が想像されてすごく新鮮な感情を得て面白かった。

前半は杳子という、普通とは異なる、ある意味普通になることを拒絶して世間一般からしたらおかしい病気と見られるような行動をとり続ける女の子と、一般的な大学生らしき男との2人の恋愛とも生活劇とも言える話。

後半は隠妻と評される、幼馴染から結婚まで至ったアラフォー近いであろう夫婦の生活について。夫が仕事中に熱中症なのか何かの病気によって1週間仕事を休んだことから始まるある意味で普通な、大きな不満もなく自然と旧日本的な奥さんとそんな2人の生活や妻について見つめ直す夫を描いた話。


作者の意図がとか難しくてわからない(笑)

ただ、
杳子の中では、普通、普遍的、平均的、均一化されている日本。異端なものを排除して皆同じでいることが正しいという日本国内の空気感に対して、杳子が争っているように感じた。

隣にいる男も、初めは世間一般の常識の範囲で彼女を見ており、異端なものに、ある意味腫れものに触るように、ある意味で常識の上に連れて行ってあげようと、世話をしてやろうという気持ちで接していたように思う。

ただ、2人の関係が時間経過とともに流れていく中で、大学生というモラトリアムを孕む多感な年頃の男は彼女の価値観を丸ごと受け入れようと考えがシフトしていく。

彼女の姉はおそらく強迫性障害。毎日同じ決まったルーティーンで彼女に食事を配膳し、定位置にものがないと落ち着かない、同じ動作をしないと落ち着かない。それを見て育った彼女だからこそ、姉を通して社会を見て大人になり、世の大人たちが毎日歯車のように同じことをして日々を過ごしていくことに辟易して、世界への反発のように閉じこもって、ある意味で病的に見えるように振る舞い、自分は変えのきく歯車ではなく、この世界に個として生きているって懸命に生きているように感じた。

自分ごとにして考えてみると、毎日仕事の中身や会話などは変わり続けるが、俯瞰して一歩引いて仕事や生活をみると、朝家を出て、仕事して、帰って余暇の時間を過ごして1日がすぎていく。時折休みをとり滅多にできない余暇を過ごしていく。
このさき結婚したらより自由度は低くなり、ある意味属人的に社会の一部になっていく。なんとなくそんなことを考えていると杳子の行動に共感できる気がする。


二つ目の隠妻については、本当によくわからない(笑)

ただ、前半との対比として一般的な幸せであろう家庭が綴られている。その中で、日常の中の空気の匂いや風に靡くカーテン、妻の幸せを想像させる肉付きの変化などところどころにゆったりとした幸せを感じさせる描写がより一層、ある意味で変化のない寂しさも感じさせるような気がする。

大人になるに連れて、何者かであろうとしなくなる。目の前の小さな幸せに気づくようになるというより、大きな社会通念や社会から見た自分を、存在意義を直視しないようにある意味で目の前の小さな幸せを噛み締めていくようになるのかと思った。

自分の心に従って、その時々感じるままに行動すること。時折そういえば少し前だったらどういう感覚だったかなって振り返って大人の階段を登っていくのも面白いなと思った。

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