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逃男 #5 『 特大ジョッキ 』

ジューーッ

炭火の上に敷かれた網の上で、ひっくり返されたカルビが美味しそうな音を立てると同時に、店員の男性が二つ特大ジョッキのビールを持ってきました。一杯700円のそのジョッキはおそらく1リットルはありそうな大きさで、そのジョッキは僕の前に一つ、もう一つは、カルビがが放つ煙越しに座る邑岡さんの前に置かれました。

そして空になった最初の一杯の大ジョッキを回収して去った店員さんの背中を目に、すでに酔っ払ってきた自分に焦りを感じながら視線を目の前のカルビに戻しました。

「そんで?」と、目の前の焼肉や特大ジョッキ、そして僕の失恋の話をおかずに、ご機嫌そうに穏やかな感じで邑岡さんは相槌を打ちました。


僕が邑岡さんに初めて飲みに連れて行ってもらったのは、2015年の年明けからまだ間もない時です。

邑岡さんは僕が当時バイトをした大学の近くのデパート内の魚屋で働く方で、職人として毎日刺し場を担当していました。高知出身の邑岡さんは元々は地元の水産市場で働いていて、その道の経験が長い方でした。そもそも職人になったルーツは中学生の時にやんちゃしすぎた結果にあるそうで、選択肢なく地元の水産高校に入学した後クラスメイトのヤンキーたちと切磋琢磨し合い、卒業後に職人の道に入ったそうです。

お世辞に聞こえてしまうのが癪ですが、僕は邑岡さんほど美味しそうな刺身を造る人は今まで見たことがありません。刺身には綺麗な角が立ち、それぞれ形が若干異なる柵を最適な切り方で切る。つまの盛り方も綺麗で、完成したお皿の見た目は他の職人の方が造るものとは、どう見ても同じ魚を使っているとは思えないくらいに差がありました。邑岡さんが刺し場に立つ日は刺身の商品棚はお客様で賑わい、あっという間に商品が売れていくものですから、当時商品に値段シールをつけたり商品棚に陳列するのが主な仕事だった僕にとって邑岡さんが刺し場の日は忙しい日となりました。

邑岡さんは仕事中いつも寡黙に作業をこなす人でした。刺身を最高に美味しそうに造るのはもちろんのこと、誰よりも仕事が早く丁寧で、まな板や作業場はいつも綺麗に整理されていました。料理経験なんて何もない僕が見てもその仕事のレベルの高さは一目瞭然で、社員の人からも厚い信頼がありました。バイトを始めたばかりの頃の僕はバイト中に彼女のことばかり考え仕事にも最低限の気持ちしか持たずに取り組んでいたので、きっと1ミリも関心を持たれていませんでした。存在してることすら認識されていなかったかもしれません。そんなこんなで邑岡さんとは特に話をすることもなく、大学終わりにバイトに通っていました。

「コージー、焼肉でも行こうか」

仕事が片付き、包丁を丁寧に研ぎながら邑岡さんは僕に言いました。彼女に出て行かれから年が明けてまだ間もない頃です。もう生きる希望なんて1ミリもない中、バイトに行く気力だけをなんとかして作り出していた僕はもう家に帰って泥のように眠りにつきたいと思っていました。しかし、邑岡さんに飲みに誘っていただけるのは晴天の霹靂のようなことで、二つ返事で連れて行っていただくことにしました。

横浜の元町駅前にあった焼肉屋で、邑岡さんはビールの特大ジョッキを二つ頼むと肉のメニューを開きしばらく眺めていました。一体この人と焼肉を食べながらどんな話をすれば良いか全くわからなかったのですが、ビールを飲んで酔いが回り始めた僕は、気がついたら元カノとの出会いから最近失恋した部分まで話をしていました。

「コージーも大変やなぁ」と、時折笑いながら聞いてくれました。その笑顔は穏やかで優しく、仕事場での雰囲気とは全く違うことに僕は少し驚きました。

「女は魔物やと思っておいた方がええで。いくら可愛くても愛おしくても、手のひらを返すときは残酷やから。そうなっても受け止めてあげられるようにしておけばあんまり傷つかんくて済むよ。まぁ、魔物やて怯えすぎてたら女なんて作れんから難しいとこやけどね。」

そういうと邑岡さんは、焼けたカルビを頬張りビールと一緒に胃に流し込みました。すでに特大ジョッキは空きかけていました。

そこでの邑岡さん話し方や表情、炭火の香り、網の上に口を開けた煙を吸うダクト、店員の靴が地面を叩く音を何故か鮮明に覚えています。


それからというもの、邑岡さんとは仕事終わりにいろんなお店に連れて行ってもらうようになりました。仕事が終わった後には週2ペースで横浜のどこかの居酒屋に連れて行ってもらいました。当時の僕はそれまでサイゼリアとかラーメン屋とか、学生が行くような店しか行ったことが無かったものですから、邑岡さんに連れてっていただく居酒屋ではいろんなものを食べさせていただき、世の中にはこんなに美味しい料理があるのか、とカルチャーショックだったのを覚えています。

本当にいろんなことを話しました。高知の魚の美味しさとか、邑岡さんの職人のルーツからヤンチャしていた頃の話、若い頃は血まみれになるまで喧嘩した話とか。休みの日が合うと、浅草まで出て食べ歩きに行ったりとか、競馬に連れていってもらったりとか、語り始めるとそれだけで一万文字くらいになってしまうので抑えますが、いろんな料理を知ることができ、いろんな世界を知ることができました。当時、大学という狭い囲いの中で生きていた僕の視野を大きく広げてくださいまいした。

大がつくほどの酒飲みな邑岡さんですが、仕事に誰よりも真摯に向き合う人でした。小売りは卸から魚を買いつけ、お客様が家庭で美味しく食べれるよう加工して売る仕事である以上、そこでの仕事を丁寧にして魚にストレスをかけないのは絶対で、それを何よりも大事にする人でした。整理整頓から始まり、所作も綺麗でした。刺し場は売り場からガラス越しに見えるようになっていたのですが、邑岡さんの所作をずっと眺めるお客さんもいました。また、周りのほかの職人の方の仕事には口を出さず、自分の担当を完璧に完うするする人でした。

仕事の面でも僕は邑岡さんに大きな影響を受けます。

僕はアルバイトの仕事である値段シールはりや品出しの合間に、少しずつまな板の仕事も任されるようになりました。初歩の初歩である秋刀魚や鯵の綿貫がメインでしたが、僕は邑岡さんと同じように包丁を使った仕事ができることが嬉しくてそれからバイトが楽しくて仕方なくなりました。最初の頃は包丁や魚の鰭で何度も手を切ったし、真冬なのに冷房の効いた作業場で、氷水に入った魚を扱うのはきつい仕事でしたが、それでもこのバイトを通じて邑岡さんのように綺麗に魚を捌けるようになりたくて必死でした。そのうちブリの内臓取りを任せてもらえるようになり、そこから数ヶ月して認めてもらえると今度は鯖の三枚おろしと、少しずつできることが増えていくのが嬉しく、バイト終わりには邑岡さんと飲みに行ってアドバイスを貰い、最後は酔い潰れる。という日々でした。

本当に楽しかったなー。

このときはまだ、僕が邑岡さんが当時使っていた包丁を持って地球の裏側でまな板に立つことになるなんて、想像もしていませんでした。

つづく



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