AI絵草子①『散椿~ちりつばき』
あるいはあれも、一種のファム・ファタルだったのかも知れない。
私と兄は、椿の育種を生業にしていた。祖父から三代目、江口戸の椿と言えば、全国区の協会でもそれなりに知れた名だが、殊に兄の宏史は桁が違った。
跡を継いで十年の間に、生み出した品種は五十を超え、そのことごとくが最高評価と来ている。
――悪魔に魂でも売ったのか?
『さすが兄さん』と口先で仰ぎながら、心中で吐く毒を兄は知らない。常に次席に甘んじる愚弟も、実質の経営も視野の外。あの椿きちがいにとって、世界は枝に結んだ蕾の中だけにあった。
***
育種用のハウスと別に、兄は自分の庭にも椿を持っていた。
殺風景な坪庭に一本きりの、樹齢は私と同じ程だろう。見よう見真似の初作で、本人には不本意な出来だったのかも知れない。品種登録はむろん、協会や関係筋の品評会にも上げず、独り淡々と世話していた。
中輪咲きの白花で、成長はとりわけ遅い。ひょろりと痩せた幹は、並べば兄の方が頭半分高かった。
兄自身の評はさておき、私にとっては、あれこそ江口戸宏史の最高傑作だった。
混じりけの無い純白。花弁も、筒に立ち上がった蕊も、先の花粉に至るまでも、冷たい程に冴え返っていた。
盛りを過ぎて樹下に溜まった花の、残雪と見紛う姿。これ以上の白など世に存在せぬものを、平然と狭い庭に埋もれさせてしまう。私に言わせれば冒涜だ、育種家の夢を踏みにじっている。
尋ねて睨まれた記憶があるから、名付けてすらいないのだ。ヨカナーンと、私は隠れて呼んでいた。戯曲に登場する、王女サロメを拒んで処刑された預言者。潔癖で傲岸で、誰にも心を開かず首を落とす。まさに兄そのものの花だった。
いっそ伐り倒せば、どんなに清々しただろう。
研究に費やす金の捻出も、煩雑極まりない業務も渉外も、後に生まれただけで、才に劣るというだけで、全て私の肩に担わねばならないのか。
離れる選択も考えたがどのみち無駄だ。すっぱり育種と縁を切らぬ限り、江口戸庵司は宏史の弟にしかなり得ない。いかに知識を増そうが技術を研こうが、終生付きまとう呪縛だと思った。
***
ある年、私は持てる限りの力を注ぎ、ひとつの椿を創った。
千重咲きの大輪で、色は匂う様な紅赤。豊かに波打つ七段花弁に、黒い花粉を冠した濃緋の蕊を包む。迷わず私はサロメと名付けた。
私のサロメは初めて兄の椿をしのぎ、最高位に輝いた。七枚のヴェールをひらめかせ踊るサロメ。かの妖姫の再来が、ついに呪縛を打ち破ったのだ。
興奮冷めやらぬまま、酒に酔った私は、サロメの鉢を手に兄の部屋を訪れた。
「おめでとう、庵司」
机に向かった兄が、一瞥もくれず投げて寄越した。負け惜しみでさえない、芯から形式の声。剪定鋏が砥石を往復する音が続いた。
「祝ってる様に聞こえないな」
「金一封でも出せば満足か?」
砥いだ刃とカシメに椿油を差し、布で拭く。ごくありふれた手入れが、兄に掛かると仕舞だ。舌に残る酒が嫌に苦く、振り払おうと口走った台詞は、私も予期せぬものだった。
「あの椿が欲しい」
怪訝そうな眼に多少ひるんだが、退くのも面倒だった。開け放った襖の先、月下に青白く名無しの椿が揺れていた。
「実験台に一輪。サロメと交配して次を創る」
言葉を継ぐうちに悪くない案だと思えてきた。対抗心となけなしの矜持が許さなかっただけで、本当はずっと試したかった。積もり積もった忍従の代償に、一輪くらい罰は当たるまい。
「断る。欲しいなら他にしろ」
強張った声が更に私を煽った。
他? 他なんて要らないあの花がいい。庭へ降りた私は手近な枝を掻き寄せるや、小ぶりに整った一輪とサロメを近付けた。掴まれた袖を引き抜き二輪を密着させる。
――ほたり。ヨカナーンの花首がもげて転がった。
「綺麗に咲いたら、兄さんにも譲ってやるよ」
くつくつ嗤いながら、自分でも醜悪だと思った。泥と紅の花汁に汚れ、こと切れた白椿。裂けた弁をぶら下げ、花芯に白い花粉をまとわりつかせた紅椿。凌辱された女の様だ。
膝をつき、落ちた花を拾う兄を放って、私は自室へ引き上げた。手の中の鋏がいつこちらに向くか、捨て鉢に覚悟したが、その気力も湧かないらしかった。
江口戸宏史ともあろう者が。見下す事で私は報復を終え、床に就いた。
翌朝、兄は天井の梁に縄を掛けてぶら下がっていた。
私を刺さなかった鋏は、開いたまま畳の縁に放ってあった。
警察が隅々まで洗ったが、遺書の類は発見されなかった。緩く握った拳が、汚れた白椿を一輪道連れにしていた事を除けば。
どうせなら、枝で縊れれば良かったろうに。
私は傷付いたサロメを株ごと焼き捨てた。新種の登録申請も取り下げ、標本も研究経過も処分し、痕跡を根こそぎ葬った。
誰に何を訊かれても黙秘を通した。どんな憶測が飛び交おうが知った事か。生まれてこの方君臨し続けた目の上の瘤が消えた。私は晴れて江口戸庵司という個性を取り戻せたのだ。
焼いたサロメの灰は、ヨカナーンの根元に埋めた。
妖姫が孕んだか否かも、今となってはどうでもいい。椿の育種から足を洗い、ハウスもこれまでの功績も放棄した。超えるべき壁も追うべき夢も、もはや残っていなかった。
***
鋏を手に、私は再び椿の前に立った。
二度と振り返らぬはずの花が、月下にざわめいている。それは私の知るヨカナーンではない。雪白に飛沫を跳ねた緋色の絞り。七段花弁の頂点に、ただれた肉色の蕊が綻ぶ。ヨカナーンの血に染まったサロメの唇だった。
――はらり。一足踏み出すと、白緋の花弁が一枚落ちた。
――はら。はらり。首ごと落ちるはずのサロメは、山茶花の様に花弁を脱ぎ散らし、見る間に樹下は抜け殻のヴェールで埋まった。届く距離に達した頃、枝に残るのは、一糸まとわぬ裸の雌蕊ばかりだった。
接吻を。あたしに接吻を。誘う調子で舌が踊る。
――ぱちり。鋏を振るって斬り落とした。
――ぼた。ぼたり。ヴェールの上に首が転がっていく。
一つ残らず斬ってやった。精魂尽きて投げ出した身体を、無数の首が受け止める。ああ、死体の温度だと思った。棺に納める前、最後に触れた宏史の温度だった。
彷徨う指が、ふと固いものを捕らえた。
探って掘り起こす。泥にほとんど隠れていたそれは、古い名札だった。引っかき傷の様な『ANGEL(天使)』の文字。えらく夢見がちな命名だ、苦笑半分になぞる。
几帳面な宏史にしては、AN以下もいびつだった。変に縦長で左寄りのG、逆に右曲がりのEと、札の隅に縮こまったLと――
指の腹から震えが広がり、やがて全身を戦慄かせた。
歯の隙間から引き攣れた息が漏れる。――なぜ。絞った声は音にならなかった。なぜ。なぜ。なぜ。音にならぬまま繰り返し、繰り返し、私の頭を埋め尽くした。
あれ程に動揺し撥ね付けた。誰にも見せず、触れさせず、独り占めに閉じ込めた、あの花の名は。
――ANJI。
一直線に、鋏が喉を喰い破った。
ほとばしる緋色が枝葉を抱いて降り戻る。待ち焦がれた接吻は灼ける程に熱かった。
とうとう私は、求めてやまなかったものを手に入れたのだ。
本作は、有志一同で作る無料電子書籍
ベリーショートショートマガジン『ベリショーズ』
Vol.6:テーマ『二次創作』にて、
創樹名で寄稿した同題の短編を再構成の上、Microsoft Copilot / DALL・E3(AIイラスト)の挿絵を加えたものです。
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