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【小説】夢の余白を埋める旅、前夜(8枚)

 僕が小学六年生で、夏休みが近づいてきた頃。学校から帰ってきた時に握る家のドアノブが、日に日に暖かくなってゆく。

 ランドセルをリビングのソファーに放ると、お箸セットがガシャッと音を立てる。それを聞きつけた母が「箸はキッチンに置いて」と注意をする。いつものやりとりだ。

 僕はテレビの前にある白いWiiリモコンと、炊飯器の横のカゴに入っていたポテチの袋を脇に抱え、冷房のきいた自宅に名残惜しさなど感じずに、夏の住宅地へとかけ出す。

 今日はまちにまった金曜日。僕には毎週金曜日にスマブラをやる同級生が二人いた。タイラ麦田ムギタである。

 いつもは僕か平の家なのだが、今日はめずらしく渡部ワタベの家で遊ぶことになっていた。平と麦田は、渡部と同じ体操クラブに所属しており、交流があったが、僕と渡部はあまり関わりがなかった。

 平が描いてくれた地図を頼りに、渡部の家を探す。今まで足を踏み入れなかった隣の区画に並ぶ家は、僕らのよりもひとまわり大きくて、表札がみんな個性的だった。道幅の広い住宅街を僕が走ると、右手のポテチがガサガサと音を立てた。

 渡部の家の表札は、飴玉のような青くて丸いガラスで出来ていて、「Watabe」と書かれていた。インターフォンの脇からはおしゃれなタイルでできた小道が伸びていて、数段高くなった玄関へとつづいていた。

 本当にここでよいのだろうか、と不安になって家の前をウロウロしていると、赤いWiiリモコンを握った平がレースカーテンの向こう側から手を振ってくれた。


 渡部に案内されてリビングへ進むと、平と麦田がキャラクターを選んでいた。彼らの前にあるテーブルには、個包装のぶあついチョコクッキーがベージュ色の箱に並んでいて、その周辺にからっぽのビニールと食べられませんの袋が散らばっていた。ポテチの置き場に困っていると渡部が「その辺に置いといて」と言ってくれた。

 一つのソファーに四人がつめこまれたように座って、みんな前のめりになってスマブラをやった。平はカービィ、麦田はスネーク、渡部はドンキーコングを好んで使った。僕はリンクとピットを交互に使った。渡部はとても上手だった。毎回優勝するものだから、カービィとスネークが同盟を組んでゴリラを討伐する作戦を立てたが、すぐに仲間割れを起こしていた。

 しかし、渡部はあまり僕に攻撃をしなかった。僕に隙があっても(隙だらけだったけど)すぐに平や麦田と殴りあいを始める。僕もだんだんと遠慮がちになって、彼に手を出せなくなった。

 僕がきてから一時間くらいした頃、渡部のお母さんが「そろそろゲームは終わりにしたらどうかしら」とキッチンから声をかけたので、僕たちは「あと一戦!」を交えた後に、リモコンを置いた。

 平と麦田はサッと立ち上がって、我先にとトイレの方へと消えた。急に静かになったリビングで、渡部は一つあくびをして、僕たちがゲームをしていたのとは違うソファーに横になって、寝てしまった。

 それから、僕は平と麦田と一緒に近くの公園でサッカーをした。渡部のお母さんにお願いして、サッカーボールと小さめの折りたたみ式ゴールを倉庫から出してもらった。誰が攻撃で、誰がキーパーなのかよく分からないゲームだったけれど、それなりに楽しかった。

 日が傾いてきたので、麦田に時間を尋ねると、彼はプラスチックの腕時計を見ながら「六時五分」と言った。僕たちはサッカーゴールを畳んで、倉庫にしまってから渡部の家に戻り、リビングに散らばった荷物をまとめた。

 平と麦田が玄関で「ありがとうございました」と叫ぶと、「お前らうるせえよ」と渡部が愉快に笑い、キッチンから「はーい、また来てね」とやさしい声がした。僕も渡部に会釈をして、家を後にした。


 三人で大通りに出た時、僕は自分のWiiリモコンを忘れたことに気づいた。歩行者用の青信号を尻目に、僕は二人に「またね」と言って、渡部の家に戻った。

 インターホンを鳴らすと、渡部が出てきた。事情を話すと中に案内してくれて「適当にリビング探していいよ」と言った。キッチンからは野菜を切る小気味良い音が響いていた。同級生の家で家庭的の音がなっていることに、僕はくすぐったいような焦りを感じながら、テーブルの下やカーテンの裏を探した。

 リモコンはソファーの下にあった。「見つけた」と声をかけようと渡部の方を見ると、彼はダイニングテーブルに向かって何かを書いているようだった。そっと近づいて彼の手元を見ると、大判ノートに複雑な図形......地図が描かれていた。ふぞろいなねずみ色のブロックが組み合わさったような地図。学校で習った地図記号は使われていない。いくつかの建物には細かな説明がえんぴつで書きこまれていた。

「なにみてるの」
「いや、きになったから」

 渡部は僕を見ずに言った。彼の手には僕が持っている定規よりも薄くてかっこいいのがにぎられていた。

「夢の地図だよ」
「ゆめ?」

 彼は定規とえんぴつをカタリと置き、消しかすをはらって、地図の真ん中を指差した。

「ここ、駄菓子屋さんだったんだ。さっきの昼寝でやっとわかった」

 僕はよく分からなくて、彼の爪の先をじっと見つめた。「だ菓子屋。品ぞろえが良い。見たこともないキャンディーを売っている。」と書かれている。

「夢って普通、夜に見るでしょ。だから、夢の町も夜の時しか分からないの。だけどさっき、ここのアーケード、シャッターが空いているのを初めて見たんだよ」

 彼は「アーケード」と書かれたふとい道を指でなぞってみせた。

「そっかぁ」

 僕はあいまいな返事をした。キッチンからはホワイトソースの香りがした。

「今日の夜は、アーケードを抜けて千寺川橋を渡った先、北部地域を目指すんだ」

 と言いながら、彼はノート上部の余白をえんぴつでさし示した。

「そ、そこにはなにがあるの」
「いや、それを確かめるんだって」

 そう言って彼はノートを閉じた。すると、玄関扉がひらく音がして、「ただいまぁ」と野太い声がした。僕はハッとして時計を見ると六時半を回っていた。

「お父さんおかえり」
「あらおかえり」

 渡部は、後ろにあった底の深いダンボール箱にノートを戻して、僕の方をちらりと見た。僕は「じゃっ、帰るね」と言って、Wiiリモコンを片手に、逃げるように玄関の方へとかけ出した。香ばしくなってきたホワイトソースを振り切って、僕は渡部の父にすれ違いざまに「こんばんは」と言い、靴のかかとを踏んで、少し涼しくなった暮れ時の空に飛び出した。

 まもなくして、渡部は行方不明になった。担任の先生が、夏休み直前の朝の会で教えてくれた。平と麦田はびっくりして、渡部捜索隊を組み、近くの森を探し回り始めた。僕も付き合わされることが多々あったが、見つからないだろうなと内心思っていた。


 あれから八年。私は大学二年生で夏休みも終わる頃。ただ町を歩くだけの夢から目覚めた朝に彼のことを思い出した。今思えば、地理に一貫性のある夢など、考えるだけで恐ろしい。底なし沼に右足を突っ込んだような怖さを感じる。じわじわとのみ込まれてゆくのだ。

 でも、彼は違うのかもしれない。地図を書くほど現実味を持った世界なら、ひょっとすると、彼は見たこともないキャンディーを咥えながら、電柱にとまった鳥を愛でて、川の流れに耳を傾け、ひたすら町を歩き続けることが出来てしまうかもしれない。

〈了〉



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