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祖母の話

以前に私が書いた母方の「祖父の噺」を、母が読んで泣いた。忘れかけていた父親の姿を、思い出せたと泣いた。物忘れが酷くなって本が読めなくなってしまったけれど、うん、うん、って頷きながら飲み込むようにして文章を読めたと、泣いていた。私が幼い頃に見た景色を文章にすることで、祖父と母が久しぶりに出会えたような気がした。だから、父方の祖母の話も書いてみることにした。

祖母は裕福な家庭のお嬢さまだったと、写真を見せてもらったことがある。女学生の祖母が「ハイカラさんが通る」のマンガで見たモダンなファッションで姐やたちを伴って、隅田川の花火を見に行ったときの1枚だと聞いた。戦争まではとても華やかで、自由で毎日退屈しなかったと笑っていた。お嬢さま育ちなので、祖母は料理も洗濯も掃除も苦手だから手が掛かると、同居の伯母がよく溢していた。祖母は病や戦争で弟たちを亡くしたから祖父が婿入りして、5人の息子が生まれたが、そのうちの1人は疎開先で亡くなってしまったと父に聞いたことがある。小さくて重い弟の亡骸を背負って歩いた感覚は背中に残っていると父がぼそっと話したことがあった。祖母は日本舞踊が好きで、お正月に遊びに行くと扇をひらひらさせて踊ったり、大正琴を弾いたり、伯父や伯母と花札をしたり、私たちとかるたをしたり、せわしなく遊ぶので、祖母から悲しい過去を聞いたことはなかった。

私の母が私を宿したとき、とにかくまずは跡継ぎだ!という人たちがいて、母のお腹が尖ってくると、「でかした、これは男の子に決まりだ」と、ベビー服や、ベビーカーやベビーバス、おまるや手押し車のカタカタとか、思い付く限りのお祝いが、無責任な思い込みの青色で揃った。記念の写真がモノクロで良かった。人々の思い込みを裏切って産まれてきた女の子の私を、祖母はとても可愛がってくれた。自分には息子しかいないし、孫も男の子ばかりだったし、女の子が生まれてきてくれて嬉しいと、お人形さんみたいに撫でてもらって、綺麗な服を着せてもらって、フワフワのぬいぐるみを抱かせてくれた。祖母は血の繋がる唯一の女の子の私を甘やかしてくれた。

祖父が亡くなった後、90歳を過ぎた祖母はひとりで暮らしていた。隣の家には従兄弟夫婦が暮らして、祖母の手伝いをしていた。特にどこが悪いという話も聞いたことはなかった。が、私はある日、祖母のお葬式の夢を見た。白い壁、白菊、レースのカーテンのような靄がかかった中に、祖母の遺影があった。お線香の香りがする夢だったから、早朝に飛び起きて8時になるのを待って、父に電話を掛けた。「葬儀の夢というのはとても気になるから、祖母の様子をさりげなく聞いてほしい」と頼むと、父は「まあ、何とも言えないが、気になると言われてしまうと、こちらも気になってしまうなあ、わかった」と、動き出してくれた。

夕方の父からの折り返しの電話は周囲が騒がしくて、そこは昨夜、祖母が倒れて運ばれた病院だと言うことを聞いてびっくりしたけれど、容態はそれほど悪くないと聞いて安堵し、祖母からのメッセージをちゃんと受け取れた自分を誇らしく思った。

数日後、「お前の話はやっぱりちゃんと聞かないとなあ」とか「息子ばかりのばあちゃんはお前が相当可愛かったんだなあ」と父はお酒を飲みながら電話を掛けてきた。そして、これからは娘の言うことはちゃんと聞いた方が良いと、叔父たちに説教をされたと笑っていた。お酒の飲み過ぎと、泊まりで出掛けるときは事前に話しておいて欲しいと、私がうるさく言うことの賛同を得たのだ。叔父たちは、私の雰囲気やものの言い方に、祖母を感じることがあると言う。お正月や夏休みにしか会わない祖母だれど、親戚の結婚式はいつも祖母の隣の席は私と決まっていて、おめかしした祖母と私は静かにキャッキャ言いながら手を繋いだり、小さく踊ったりしながら、男系の親族はいつも新郎側で緊張感がないねえなどと、お嫁に出す身内の感傷に浸ることなく存分にお祝いの料理やお酒を楽しんだものだ。私の結婚披露宴では、新婦の隣の席に座れないけれど、こちらから手を振るからねえと、1番後ろの親族の席で小さく座っていた。

祖母は緊急入院した病院から帰宅せず、自宅から離れた山沿いの老人ホームに入った。ホームではお友だちも出来て、賑やかに過ごしていたと父が教えてくれた。介護士さんのことをたまに姐やだと思ってしまうようだけれど、ありがとう、ありがとう、と笑顔を絶やさないそうだ。私は息子たちがもう少し手が離れたら、会いに行こうと思っているうちに、再び祖母の夢を見た。「信玄餅が食べたい」と縁側で祖母が私に言う夢だ。私は父に「ばあちゃんが私に会いたがってると思う、あとね信玄餅が食べたいんだって」と連絡して、2日後には長いドライブのための息子たちの着替えやおもちゃを車に積んで、あちこち探して信玄餅を買って、祖母に会いに行った。昔から父が出張で買ってくるのは山梨の信玄餅、接待の帰りのお土産は六本木のアマンドのリングシューと決まっていた。そうか、山梨からの帰りには父は祖母の所に寄っていたのだと、夢の中の祖母の様子で知った。

祖母は私の手をとって、私の息子たちの手もとって、孫がひ孫を連れて来てくれた、ありがたい、ありがたいと、かごめかごめみたいに手を繋いでくるくると回った。何度も何度も私たちの名前を1人ずつ呼んで、おじいちゃんはなかなか私をお迎えに来ない、冷たい人だ、もうおじいちゃんでなくて白馬の王子のお迎えに決めた、と可愛い悪口を言って、一瞬に信玄餅を食べて、お口と手を拭いてもらって、美白ハンドクリームを塗って、私にも塗ってくれて、嬉しすぎて眠くなったと横になった。「おばあちゃんは、私に会いたいって、念を送っているでしょ」と聞いてみると、「そうよ、お耳が遠くなって電話を掛けられないから念じたのよ、電話よりも便利よ」と私の手を撫でた。そして「あなたのお父さんのことは、私に任せておきなさい」と、私を真っ直ぐに見て、はっきりとした口調でちょっと笑って、さらりとお告げみたいに言葉を残して、寝てしまった。そのときはその言葉の意味がよくわからなかったけれど、穏やかで揺らぎのない響きは今でも覚えている。

数ヶ月後、悪口が聞こえたのか、おじいちゃんがお迎えに来て祖母を連れていってしまった。そして、父は次男なのだけれどさまざまな都合で、自分が建てたお墓に祖父と祖母を迎え入れた。はとバスが並ぶ観光地のお寺は賑やかで四季折々の花が咲いて、祖母はきっと気に入るから、と納骨をした。

そして祖母の七回忌のこと。お酒を呑むとちょっと面倒な親戚が自分勝手な発言をした。父も叔父もやんわりとなだめていたが、その人は女性だったので、どうしたものかと困ってしまっていた。「今日がどんな日かおわかりにならないなら、お帰りください、小さな子どもたちも見ています、情けないことです」というようなことを私が言ったら、その人は黙ってしまったのだけれど、父の一番下の弟の叔父が涙を流しながら笑い出した。「お袋にそっくりで、懐かしくて、嬉しくて、泣けてきたよ」と鼻をかんだ。私の中には、祖父母や父や母や色んな血縁の素材が入っていて、無意識のうちにその場に応じて誰かの素材が活躍するようだ。「今日はお前のおかげでうまくいったよ」と帰り際に父に肩を叩かれて、私に頼みがあると父に託されたのは、父が亡くなったら戒名には光という文字をいれて欲しいということだった。光学機器の会社を始めたことが、人生の大きな出来事だったからだそうだ。「それ、遺言なんだから、私よりも弟に話した方がいいんじゃないの」と私は弟を呼びに行こうとしたら、「いや、いい、お前に任せたから」と父は自分だけ満足したけれど、私は「おーい!弟!ここの長男!戒名には光を入れるんだぞ、光だぞ!遺言は共有したからね!」と、向こうの自販機でお茶を買っている弟に叫んだ。

その半年後に、余命1ヶ月と宣告されて、父はあっけなく逝ってしまった。海の町の山の上にひとりで暮らしている父は、私たちに迷惑はかけられないからと、老人ホームのパンフレットを取り寄せていた。亡くなる前の数ヶ月間は、スイスにスキーに行って、オーストラリアにダイビングに行って、町から借りた畑で野菜を作って、庭にハイビスカスをたくさん咲かせて、病気だとは全然気づかないで、海が近くてアクティビティの豊かな施設がいいなあなどと、見学会にも参加していたようだ。父に残されたわずかな時間に何もしてあげられなかったけれど、戒名のリクエストには応えることができた。人生の最期に豪快に遊んで長い闘病をせずに眠るように亡くなったのは、祖母が迎えに来たからだと私は信じている。「あなたのお父さんのことは、私に任せておきなさい」って、祖母が自信満々に言っていたから。そして大事で不思議で心強いことを唐突にさらっと言うその感じが、私と似ていてとても愉快だ。