予感
クリスマスのサラダを盛りつけるために、普段は使わない大きな桜の柄のお皿を出した。12月に桜って不似合いかしらと思いながらお皿に触れたときに、「このお皿は割れてしまう、今日が最後になるのかも」という思いがよぎった。
鍵
以前にもそんなことがあった。私が不動産屋のアルバイトをしていたときだ。朝から、「鍵、鍵、鍵、、」と呟きながら、家中の鍵を確認した。「今日はなんだか鍵についての嫌な予感がするから、皆、鍵をなくさないようにね」と息子たちに忠告した。家の鍵は、スペアもあるからたぶん大丈夫。職場では、扱う内見の物件の鍵をなくさないように気をつけよう、と意識して玄関では丁寧に鍵をかけて私は出掛けた。その日はとにかく鍵に関することには、細心の注意を払って作業をした。金庫の鍵には関わらないように、営業車の鍵は首からさげて、事務所の裏の壊れかけている鍵には近づかないように働き、タイムカードを押して職場を出たとき、何事もなかった私はだいぶ落ち着いていた。夕食の材料を買うためにスーパーに行って、トイレに入って、ああ、今日は私の勘違いで鍵に固執してしまったなあとため息をついた。緊張感が解けてトイレの個室を出るときに、あの予感が当たってしまった。スライドさせる鍵が、びくともしないのだ。私はトイレの個室に閉じ込められたのだ。手が滑らないようにハンカチを巻いても、拳で鍵を横から叩いても動かない。遠慮しながら人を呼んだが、扉の向こうに人の気配はない。そもそも誰かが外にいても、鍵はこちら側にあるのだからどうにもならないのだ。そこで私はスマホでスーパーの電話番号を調べ、応答するオペレーターに状況を説明した。しばらくすると、「どうなさいましたか」と興奮気味に女性店員がやって来た。「鍵が動かなくなってしまった、外側からはなにも出来ないと思うので、私にプラスドライバーを貸して欲しい」とお願いをした。「はい、かしこまりました!」と女性店員は快く引き受けてくれて、設備係の男性がやって来て、扉の上の隙間からそっとドライバーを差し出してくれた。私はネジの頭を潰さないように、ひとつずつゆっくりと渾身の力を込めて、全てのネジを回して鍵を外した。「落ち着いてくださいね」と声をかけてもらうが、ここにいる人物の中ではたぶん私が1番冷静で、1番歳上だ。扉を開けて鍵を渡すと、設備係と女性店員と掃除スタッフとお客様係の方の拍手で出迎えられた。無事に地球に生還した、くらいの感動で出迎えられたが、私にしてみたら恥ずかしいのと疲れたので、もうとにかく早く帰りたくて笑顔はない。「ご迷惑をお掛けしました」と頭を下げて、ほらやっぱり私が1番歳上だった、情けない、と皆さんの顔をチラリと見てお礼を述べてその場を去った。帰宅すると息子たちは朝の私の忠告などすっかり忘れて、いつものように自転車の鍵を放りっぱなしにして、テレビを見ていた。
ガラス
奇跡の生還から数ヶ月後、朝から「ガラス、ガラス、ガラス」とガラスへの恐怖心が私の中に溢れていた。また、あの嫌な予感が来た、と静かに息子たちに話すと、鍵のことがあったので「うん、わかった、気をつけてみる」と彼らは前回よりも素直に忠告を受け入れた。今日は内見がありませんように。帰りにどこかに寄り道はやめよう。バスも窓際には座らないようにしよう。それから、水槽、花瓶、置時計、牛乳瓶、社長の眼鏡、、ガラスには触れないように、近づかないようにしよう、と緊張した1日を過ごした。事件が起きたのは帰宅して食事の支度をして、息子を習い事に送ったときだ。植え込みのある駐車場にバックで車を止めた。障害物もなかったし、センサーも鳴らなかったのに、リアウィンドウが突然割れた。「え?撃たれたのか?」と長男が声を潜めて言った。暗い駐車場で何が起きたのか状況が掴めず、外に出て懐中電灯で照らしてみると、センサーが反応しない高い場所から木の枝が、嘘みたいに遠くの幹から湾曲して予想外の突出をしていたのだ。
そんなことがあったから、クリスマスの翌日にキッチンで大きな音を立てて桜の柄のお皿が割れたとき、私は驚かなかった。「手が滑ってしまった」と夫ががっかりして不機嫌な顔をする側で、「割れる予感がしていたから、大丈夫、気にしないで」と私はあっさりと長いこと使っていた頂き物のお皿とお別れをした。
テレパシーと母親の勘
破片の片付けを見ていた長男が、母さんのその予感はあまり役に立たないけれど、自分が小学生のときのテレパシーみたいなのには助けられた、と言う。ピンチのときには「母さーん!!力を分けてくれー!」と念じたら届くから、とにかく念じなさいと言っていた。当時の長男は学校でのトラブルが多かったので、とにかくその場を我慢させるために念じることで落ち着かせたかったのだ。長男がランドセルを背負って帰宅したときの表情や衣類の汚れ具合で、「今日はテレパシーが飛んできたから、がんばれ!がんばれ!って念じ返したけれど届いた?」とうそぶくと長男は驚いた顔をしながらも安心して「うん、送るほどではないけどピンチはあった。だから母さんからのがんばれに気づけなかった」と答える。本当はテレパシーなんかないけれど、子どもの様子で発熱を感じたり、子どもの忘れ物にギリギリで気づいたり、子どもの嘘は手に取るようにわかるし、足音で家族の誰の帰宅か判別がついたり、母親の勘は子育ての中で磨かれていく。そして、子どもの成長とともにその勘は失われていくのだ。そういえば歳をとったからなのか、女の勘の出番もなくなったなあ。