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恋するからだ

ユマクリニック カルテナンバー1

              こい瀬 伊音

 また、真新しい白衣に袖を通す。
 低気圧がばりばり発達して、頭がツキン、ツキンと痛む。秋雨ってことばはきれいだけど、要は温度差のはっきりした二つの空気がぶつかり合うところでしかたなく降る雨ってこと。
 まえの病院をたった半年でやめたのは、単に自分に合わなかったってだけ。そう言い聞かせてナコは新しいスタートを切った。こういう小さなクリニックなら、大丈夫。な、気がする。
「サイズどう?」
 先輩のミヤさんが、休憩室兼ロッカールームに顔を出す。スキャンするみたいにさっとナコを見て、ぴったりね、とにっこりする。
「あの」
 さっきから気になっていたことを聞いてみなくちゃ。
「ミヤさんとわたしの白衣、違うんですね」 
 ナコのはいかにもナースって感じの白だけど、ミヤさんのは若草色だ。
 そおねーといいながら、ミヤさんはワンピースをめくりあげてその裾を顎ではさんだ。え!白のレースが透けてなまめかしいんですけど!! 
「いやーんナコちゃんのえっち」
 あっ!すみません!とっさに背中を向けてからはたと考える。なんでめくったのよ!?
「ナコちゃん、ちょっと裾押さえてくれない?」
 えっふりかえっていいんですか?
 ミヤさんの下着はこともあろうに胸下から左右にわかれるベビードールで、暖簾のように片方だけをつまみあげていた。下はショート丈のペチコートで、ふとももがあらわ。なにかの誘惑でしょうか、初日から倒れそう。
 ミヤさんは酸っぱい顔をして、「紀州南高梅」のパックからまっかな大粒をひとつつまみ、しろいおなかにはりつけた。
「つめたっ」
 なんの冗談ですか、笑ってるけどわけわかんなすぎてこわいし!
「え?わかんないの?さてはモグリだな?国試受かったんじゃないの?腹部にある、赤いうめぼし様のものといったらなーんだ!」
 そう言いながら、高級そうなうめぼしに、パックの底の汁を指でぬりこんでいる。てらてら。
「…ストマ」
「はいせいかーい!今日これからくる患者さんはね、ストマ造設をためらっている女子。セカンド・オピニオン目的の35歳!」
 はい???
「実際にここにあるほうがイメージつきやすいでしょ?」
 このひと、なんなの?
 ストマって、人工肛門のこと。それが腹部にできるということを、かんたんに受け入れられる人なんてきっといない。ましてや女性にとって。
「不謹慎が過ぎませんか?おふざけみたいに」
 私のことばなんて聞こえないみたいに、ミヤさんは鮮やかな手技でうめぼしのまわりにドーナツ型の土台をはりつけた。わざわざうめぼしの直径にあわせてドーナツの中心をはさみですこし広げる手のこみよう。そしてその上に、うんこの袋のパウチをはりつけた。体温でよくなじませるやさしい手つき。
「ほんとにストマがあるみたいでしょ。もういいよ」
 パウチを丈の短い腹巻きのなかにしまって、その上をベビードールで覆った。薄いヴェールごしにみえるしなやかなからだのライン。
「わたしね、ナースっていうか、まぁセラピストなの」
「だからって」
「相手に寄り添うことが仕事」
「倫理的にっ」
「新入りなのにおもしろい、だいぶ食って掛かるね。大丈夫、臨床倫理の原則をはずれたりはしないって」
 わたしは四原則を思い浮かべた。自立尊重、それから無危害、善行、あとは正義!ひとつひとつ、照らし合わせてやろうじゃない。

 竹下さんは顎下できれいに切り揃えたボブの髪を揺らして9時ぴったりに現れた。ゴロゴロゴロ。空を転がる不穏な空気をひきつれて。細身のパンツがきまってて、一歩がおおきいなんというかサバサバ系の女性。「生きるためなら切っちゃいますよ。ばさっとね」ってすぐに言いそうなかんじ。でも。そんなひといる?そんなわけない。目をこらせば服のなかにぎっちり、やるかたないかなしみってものがつまってみえる。
「予約していた竹下です」
「廣永先生から伺っています。まずは問診票をご記入いただけますか?」
「…あ、はい」
 隙のない雰囲気にほころび。
 人工の肛門をおなかに作らなきゃいけない事態。でもその前に、このひと、気持ちが閉塞してこころの内圧が高まっている。出してしまえばいいのに、抱え込んでいる感情。
 名前、生年月日、既往歴、アレルギーやインプラントの有無、配偶者の有無、最終月経、妊娠の可能性の有無、妊娠の希望の有無。
 竹下さんはさらさらと名前や日時を書き、妊娠の可能性まで一列になし、とマルをつけたあと静止した。妊娠の希望、ということばに躊躇している。ボールペンの先がわずかに震えてみえる。
「うむ、ばっかり聞いてるいやな紙ですね」
 ミヤさんが優しく問いかけると顔を上げ、泣いているみたいに笑った。眉毛の下がったずぶぬれの犬みたいに。
「まずはリラックスしましょうね、好きな香りがあったら選んでください」
 ティートリー、ベルガモット、スウィートオレンジ、ラベンダー。その中から竹下さんが選んだ二本のエッセンシャルオイルを受け取って、奥へ進んだ。
 わたしはさっきおしえてもらった通りに、検査着にしては作務衣みたいな着替えを渡した。なんていうかタイ古式マッサージでもしそうな感じ。
 茶色のヴェールをくぐってなかにはいると、美容院のシャンプー台のまえみたいな椅子があった。竹下さんに座るように促し、足元にお湯を用意したミヤさんがうずくまる。
 ゆったりとおちつきのある柑橘系の香りが湯気とともにふんわり立ち上がった。
「足、つめたいですね。日々おいそがしいんでしょう」
 ミヤさんの声、すごくやさしい。
 フットバスといえばマッサージやエステのイメージだけど、リラックスして痛みを緩和したり眠りを誘ったりする看護でもある。そうはいっても余裕がなくて、夜勤でやってあげられたことなんて今まで一度もなかったけれど。
 お湯をつかう音って、なんだかこころをゆるめるよね。そうか、ミヤさんはこうしてまずこころをケアするんだ。セラピスト、なんだもの。
 ぽつり、ぽつり雨のふりはじめみたいな音を呼び水に、竹下さんはこころのうちを言葉にしはじめた。内圧が、徐々に下がっていく。
「廣永先生はとってもよく説明してくれたし、この先生に任せれば大丈夫って思います。でもそれって、わたしがストマをつくって生きるって決めた場合なんですよね。わたしはまだ、おなかに肛門を作ってまで生きる必要があるのかなってところをうろうろと考えていて」
 
 だれもが生きたいと願っている、なんてだれが決めたんだろう。
「死にたいと思ったことある人いますか。いないね。そう思う人は病気です」
 忘れもしない看護学概論の講義での学院長の言葉。あの時、学院長は半笑いだった。「健康な人」はこんなにも冷たいのかと愕然とした。死にたいっていう願いはどうして尊重されないのか。受け入れてはいけないことなのか。わたしにそれはわからなかった。安楽死だって、私は積極的に賛成派だ。でもプロになるために、そこらへんのことに個人的な考えは絡めないようにした。
 死んだって構わないじゃないの。その考えを支持しては、「無危害の原則」に反する。倫理はこんなとき、物差しになって便利。
 でも、もしわたしのおなかにストマをつくるとなったら。生きていくの、ただでさえめんどくさいのに嫌になるとおもう。それに、生きていくって決めたとしてももう恋はできないなって思い当たってこころがずぶずぶとしずんでしまう。
 だれが好きになってくれる?おなかにうんこの袋をぶら下げてる女を。
 無意識にうんこが出ちゃう状態で、どんな顔して恋を語れる?
 いつか現れるはずだったパートナーと一緒に生きる希望を絶って、障がい者手帳を片手にこれから先一人で生きていく覚悟をする。強い強いサバイバーになる。そんなならわたし、生きてなくてもいい。
 死ねばいいじゃん。わたしとめないよ。
「もし。子どもでもいたら、その子のために生きなくちゃって思えそうだったのになーとか。仕事も婚カツも疲れちゃったなーとか。積極的に死にたいとは思わないけど、生きたいとも思わないんですよね」
 竹下さんはこんな話迷惑ですよね、と諦めた顔で仕方なく笑ったように見えた。
 気圧の谷が真上を通る。せめぎあう。生きたいと。死にたいと。私の両目から、雨が降った。
 ねえミヤさん、なんか言ってよ。こんなとき、なんか言うのがセラピストなんじゃないの。
 ミヤさんはひざまづいた自分の太ももにふかふかのバスタオルをのせ、竹下さんの足をおしいだいた。包み込んで水滴を押さえる。右足を新しいタオルに包んでから、左足のオイルマッサージを始めた。足首から骨に沿って指を進め膝裏を通ってリンパマッサージみたいだ。竹下さんの膝下がジューシーでぴかぴか。
「触れてもらえるのって、うれしいですよね」
 もう誰にも、抱かれることなんてないんだ。そのことをかみしめるように胸の奥におしこめる。あまいあまいオレンジの香りのわたあめを圧縮して、ぎしぎしにしてこころの底に詰めていく。
 竹下さんは黙ってしまった。
 ミヤさんも、なにも言わない。もくもくと、手を動かしている。
 ひくっひくっ。しゃくりあげる音が響いた。鼻をすするぐじゅぐしゅする音。すばやく辺りを見まわしてティッシュを一枚をひきぬき、あとは箱ごと竹下さんの膝の上においた。無駄にセレブなやわらかさ。猛然とくやしさがこみあげた。

 施術が終わると作務衣姿のまま、診察の丸椅子にかけてもらった。真っ白な壁と照明が、嫌でも想いの輪郭をシャープにして浮き上がらせてしまう。顔のパーツひとつひとつが大きいユマ先生の白衣には、ワンピの柄がしっかりと透けている。有馬クリニック、なのにユマ先生ってあだ名かなにかなの?女くささがむせかえる美魔女のまま患者さんの前に立ちたいなら、美容外科でもやればいいのに。竹下さんをこれ以上ぺしゃんこにしないでよ。無駄にゴージャスな巻き髪に、反発を覚えてしまう。
 やっぱりオペをしてストマ造設。そのラインはくずれなくて、執刀医として廣永先生が優秀だからと逆紹介することになった。そうですか。吹っ切れたような、突き放すような返事のあと、竹下さんはたちあがった。
 お着替え、こちらでどうぞ。ちいさな更衣室に案内して、カーテンに手をかけると、こんなに泣いたの何年ぶりかな、すこしすっきりしました、と笑顔を見せてくれた。
 わたしはほっとして、よかった、なんて思った。竹下さんがすこしでも前向きになれて、よりも、自分の居心地悪さが取り払われて「よかった」。百パーセント自分のための感情で、愕然となる。看護師だって人間だから天使以外の感情もたくさん持っているものだろうけど、わたしはまだうまく折り合いをつけられていない。
 着替えの気配は終わったようだった。
 だけどまだ、カーテンが開かない。
「竹下さん。お着替え、終わりましたか」
 ひとりきりになったらまた泣いちゃうのかな。でも鼻をぐじぐじする音もない。
「ご気分、すぐれませんか」
 返事がなかったので開けますよと断ってカーテンを開くと、竹下さんは壁を見つめていた。
 その目線の先には。
 セミヌードのポスター。二本の足で立っているだけでめちゃくちゃにかっこいい女性。腹部に排泄口を持つことをあらわすオストメイトマークの白十字に重ねて「生きるからだ」「恋するからだ」の文字。そうだ、これは数年前に、新宿の駅をジャックしたポスター。ストマのあるエマは難病と共に生きるミューズだ。
 死にたいなら死んじゃえばいいなんて思っていた自分の逃げ癖のついた弱さを、エマのポスターがぶち抜いた。
 なんていう光。なんて強い覚悟。だけどしなやかな意志が見る人を包みこむような。
「竹下さん!何をなくしても、どこを切除しても、けしてマイナスじゃないです。ここみてください。オストメイトマークはプラスなんですよ!」
 わたしがマークを指さすと、ポスターから目を離さないまま竹下さんがうなづいた。
「恋、わたしも、」
だけどしたいとかできるかなとか、続かずにその言葉が切れてしまう。

 それからわたしはずいぶんと、夢中になってしゃべったんだと思う。ポスターのエマについて。医師で、難病患者で、歌手でモデルの彼女が、どんなにかっこいいかを。女手ひとつで子育てしながら恋だってもちろんバリバリで、患者としてだけじゃなく人として、女として人生を謳歌しているということを。それから、彼女は自分が着たいランジェリーをプロデュースしていること。それを着れば恋だって、臆することなくできるってこと。
 あれ?
 私、さっき見た気がする。
 ストマとベビードール。
「ミヤさん!ミヤさん!こっちにきて脱いでください!」
 ミヤさんは、ユマ先生と顔を見合わせてからにたりと笑う。
「なぁにー?ナコちゃんのえっち。しょうがないなぁ。」
 おもむろにユニフォームを脱ぎだすミヤさんに、こんどは竹下さんが目を白黒させた。白い胸。太もも。ほんと無駄にセクシー。
「これ、エマのランジェリーの、ストマ専用ラインなんです。触ってみてもいいですよ」
 竹下さんがおずおずと、わたしを見てくる。まあそうだよね、いきなり目の前で下着姿になられて、わーじゃあ遠慮なく!っていうひとはあんまりいなそう。
「これ!これ!かわいいですよね。こういうレース着たら、テンション上がりますよね」
「ナーコちゃんのテンションがふりきっててすごいわね。アイラッシュレースっていうの。素肌にきれいな陰影がつくのよ」
 ナーコちゃん?ま、いっか。さすがドクター。うんちくにもちゃんとお金かかってる!
「パイピングはサテン地だけど、伸縮性があって動きやすさもあります」
 ミヤさんは、着心地の説明。もうもどかしくてたまらない。私は早速ミヤさんの後ろに回って胸下で切り替わったレースを左にご開帳した。
「ちょっとー。自分でするわよ」
 わざとらしいミヤさんの声。さっきはわたしに裾を持たせたくせに。
「見ててくださいね。この、ベビードールの裾をもって胸下のパイピングのところに挟み込みます。そうするとほら。ストマのお手入れしやすいでしょう?それからね、背中から続いている身ごろの部分はからだにぴったり沿ってカシュクールになっているから、広げてお手入れもしやすいしこの中にパウチを収納しておけるんです。こんなふうに」
 あ。ついに、うめぼしのストマが出てきちゃった!
 竹下さんの目がうめぼしに吸い寄せられる。
「あの、ストマ、なんですか」
 ミヤさん、なんて答えるの??
「いいえ。これは、わかりやすいように例として貼ったんです」
「わたしに、見せるために?」
「もちろん。よりよい生活をイメージできるようにしたくて」
 わぁこれ、退院後の生活を見越した看護ってやつだ。希望を持って治療に取り組むことができる。入院もしてないのに看護目標がもう立って、EP(エデュケーションプラン)が実施されている!セラピストっていってたけど、ミヤさんって何者なの!?
 わたしが感動しているのなんてよそに、先生がのんきな声で言う。
「これとってもいいわよー。おなかのお肉が気にならなくて。堂々と年下のメンズを誘えるもの」
 あ、竹下さんが笑った!
「今日、ここに来てよかったです。わたし、ちゃんと治療して、恋だってします。さっきの問診票、妊娠の希望はありにマルしといてください」
 ふふふ。勝ち誇ったような若干気持ち悪い笑みで、ミヤさんが肩を組んできたから組み返した。ちょうどよかった。誰かの手をとって、ぶんぶんふり回したいような衝動にかられていたから。
 
 どうぞお大事に。お会計のときにミヤさんがエマのランジェリーカタログを手渡した。
 なんだ、カタログあるなら脱がなくてもよかったじゃん?
「露出狂ーって顔にかいてあるよ。ひと肌脱いだからこそこころを開いてくれたんだーって思わない?」
 ま、それもそうか。ミヤさんにはいいものみせてもらったし。え、やらしい意味じゃなくてね。
「さて、これからナコちゃんの歓迎会派手にくりだしましょう、先生!」
「えっ、まだお昼前ですよ?」
「金曜日は予約しかやってないのよ。今日はもうおひらき」
「夜勤明けとか、午前中から飲むのは看護師の常識でしょ!廣永先生のつけで好きなだけのんでいいから」
 休憩室兼ロッカーでならんで着替えるとき、もう一個ビックリするようなことがあったんだけど、それはまた次のお話。
 三人で外に出ると雨あがりのにおいに金木犀のヴェールがかかっていた。ふわり、レースみたいに。風がすこし冷たい。
「ナーコちゃん、そうやって背中丸めてると、すぐにおっぱいさがっちゃうわよ。肩甲骨ぎゅっと寄せて、大胸筋張って!」
 指示の通りに胸を張ったらオードリーの春日と笑われた。からかわれながら、わたし、ここでしっかり根が張れそう、と思った。
 胸を張って生きろって言われるより、みすみすおっぱい垂らすなのほうがだんぜんしっくりくるもの。



撮影  小林正嗣
モデル エマ大辻ピックルス 
コピー こい瀬伊音

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