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祭りの後。

Twitterでつぶやいた、聖ゆうかへのお別れの言葉を残しておこうと思い、再編集の上掲載しています。
私が私に対して贈りたい言葉なので、他人にとっては意味不明だと思いますが、
ここに置かせておいて下さい。



言葉の綾というか、表現上こうとしか言え(書け)ないので深刻に捉えないでほしいのですが、
私の中には何人も私がいます。
水城せとな先生の、脳内ポイズンベリーのような感じです。

ただ、私の中の人達は、脳内ポイズンベリーのように別人としてキャラクター化はされていません。
価値観の違いで相容れず独立してしまっているのですが、全員、紛うことなき私です。
外見イメージも、18歳の時の私とか、25歳の時の私とか、そんな感じ。
私以外の何者でもない人達です。

聖ゆうかはその中の1人だったのですが、
今朝方すべての取扱電子書店に君抱きの最終話が配信されたことに安心して、
いよいよ深い眠りについた実感があります。

私の脳内は常に、
脳内ポイズンベリーや新世紀エヴァンゲリオンのゼーレ会議のようになっていて、
それぞれ違う価値観を持つ「私」達が輪になって、
色んなことを話し合っています。

ちなみにこの文章を書いている私は、対人関係をはじめ社会生活を担当している「わたし」です。
Twitterでつぶやいているのも、大体「わたし」です。
漫画家になる以前、販売・営業・接客業に従事して
所謂一般的な社会生活を送っていた頃の価値観を持つ「わたし」。


2016年の私は、

・乗っ取りレンアイ
・君を抱くのは仕事だから
・一ノ瀬くんは年上彼女をめちゃくちゃに甘やかしたい(旧まじめメガネくんの本性は野獣)
・オトナの恋の終わらせ方

この4作品を全て、ほとんど同時進行で立ち上げて連載していましたが、脳内はまったく混乱していませんでした。
それぞれのストーリー担当の人が、脳内にいたからです。今もいます。

のせあまは名義は聖ゆうかでも、聖とは別の担当者です。
野獣スイッチON!を描いた人です。作風、似てますよね。

聖が描いていたのは、

・癒し系男子と囚われ生活
・トモダチなんかじゃない
・乗っ取りレンアイ
・君を抱くのは仕事だから

かな。たぶん。

アマチュア時代に遡るなら、セレナーデという作品も、聖が描いていたと思います。

タイトルを並べてみると、
私の内面の繊細な部分を、そのまま剥き出しにしたような作風でしたね。
そりゃあ、擦り減って当然です。
自分を擦り減らすことでしか描けないような作品を、たくさん描いてきたのですから。

例えばTwitter。
たった140字程度の状況説明のための文章であっても、書いたことをそのまま読み取ってもらえなかったり、書いていないことを想像で補完された上に一方的に決めつけられる、なんてことはありふれた話で。

フィクションの漫画表現で何かを伝えるということは、実に難しいことです。

読者それぞれに、独自の歴史と価値観と、漫画への愛情(という名の、「漫画とはこうあるべきだ」という思い込み)があるからです。
無論、私にもあります。
それはもう強固な、愛情という名の思い込みが。

それゆえに、漫画に求めるものは人それぞれ。

ですが、ごく一般的な読者が漫画に求めるものの一つとして、
「現実の世界よりも、美しくて優しくて、とびきり幸せな気持ちに浸れるフィクションの世界を見せて欲しい」
というものがあります。
TLというジャンルは、その傾向が顕著かもしれません。
「優しい綺麗な嘘を吐いて欲しい。最後まで興醒めしないように、鮮やかに騙し続けて欲しい。」
…という感じでしょうか。

君抱きの1〜8話が聖の想定外の読者層に対しても評価されたのは、
当時の精密な絵と、ストーリー全体を優しい嘘(に、ほんの少しの現実をスパイス程度に少々)でまとめていたことが大きかったと思います。
8話までの君抱きは、作者個人としては、気に入った作品ではありませんでした。
ティーンズラブとしては及第点以上に描けた、
という満足感はあったけれど、やっぱり綺麗事だなぁという感じで。

聖が一貫して作品に描こうとしていたことは、
「現実の世界は、醜くて残酷だからこそ美しい。傷つくという経験すら財産で、だからこそこの世界は、生きるに値する」
ということだったと思います。
それぞれの作品のテーマとは別に、創作という行為の根幹に流れていたもの。
聖が漫画を描き続ける原動力は、

「あなた自身もこの世界も、生きるに値する」と、自分にも他人にも伝えたい

という、シンプルな欲求だったと思うのです。

まあ、四面楚歌でしたね(笑)
フィクションという手段で現実を突きつける作風ですから、このジャンルで嫌われるのは道理。
仕方ないのです。広く受け入れられようとは思いません。
その代わり、誰になんと言われようと、聖の作品を凡作とも絶対に思わない。
聖はなんの虚飾もなく裸一貫で挑戦したし、最後までやり遂げました。
1人にでも伝わった実感があるなら、恥じることは何もない。


繊細な面を剥き出しにして創作するなんて、本当なら、何年も何作も続けられることではありません。
彼女は2019年に、既に限界を迎えていました。
本当は復帰も、積極的にはしたくなかったのだと思います。
彼女を引っ張り出して復帰させてしまったのは、たぶん、この文章を書いている「わたし」です。
漫画をまた生業にするのであれば、
これまでの作品を完結させなければ、読者と取引先に申し訳が立たないと、思ってしまった。
たとえ復帰にあたりペンネームも絵柄も作風も全て変えて、誰にもそれを悟られなかったとしても。
漫画家としてプロに復帰するならば、
プロとしてこれまでの仕事に蹴りをつけなければ筋が通らないと。
脳内会議の結果、主に「わたし」がそう、決めてしまったのです。

君抱きの連載を再開してからというもの、聖からは、

「昔と同じ絵が描けないことで、悪く言われるのはわかりきっていた。
わかりきっていても、こんな風に面と向かって突きつけられるのは辛い。
復帰なんかしたくなかった。
読者には、あの頃の聖ゆうかを後生大事にしておいてもらえばよかったじゃないか。
なんでこんなことまで言われて、それでも私が描かなきゃいけないの。
それこそ、別の人に描かせたらいい!」

と、散々文句を言われてきました。
一応断っておきたいのですが、聖はあくまで、復帰をさせた「わたし」に対して文句を言っています。
誰かに傷つけられたとは、一言も言いませんでした。
辛い思いを強いられてるのは、全て「わたし」の責任だと(笑)

それを受けて、聖も含めた自分を守るために、
「お金を払って読んでいる読者だからといって、作品とその作者に何を言ってもいいとは思わない」と以前noteやTwitterで言ったのは、対人関係担当の「わたし」です。
たぶん「わたし」は現実で散々揉まれているので、恐ろしく気が強いのだと思います。
誰に対しても物怖じせず、自分を守るために必要なことは伝えられるよう、
他人にも自分にも後ろめたいことはしないよう、日々徹底しています。
ということは、自分にも他人にも容赦をしない、ということです。
それは失敗を許さないという意味ではありません。
寧ろ失敗をどう受け止めるか、というところで、曖昧さを許容しないということです。
聖とは本当に、まったく価値観も性質も違う。
全部あわせて、私という人間なのですが。

このように私の内面では壮絶な葛藤があり、
聖は「わたし」に無理矢理復帰させられたと度々主張しておりますが、
それでも最後まで描いたのは、聖の意思があったからだと思います。
本当に聖に完結させる意思がなかったら、誰がどんなに頼んでも、続きは描かなかったことでしょう。
馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。
この言葉は動物や他人に対してのみならず、自分に対しても真実です。
意に沿わない何かを強制することは、誰にも出来ません。
私はそれを、病気になってペンを持てなくなって、初めて知りました。
思い通りに絵が描けなくなったのは、体が言うことを聞かなくなったのではなく、
私が体の言うことを無視し続けてきた結果なのだと。


もう、
消えてしまいそうなほど擦り減ってしまった聖を、
無理に前面に引っ張り出して創作することは、二度とありません。

これからは、聖とは違う作風の漫画を描いていきます。
それでいい。私の人生は、まだ続く。

でも、聖の祭りは終わりました。
最後までお付き合い下さった皆様には、心から御礼申し上げます。
電子単行本作業と読者企画は完遂しますので、どうぞご安心ください。
この二つは、楽しい打ち上げのようなもの。
聖も、この時ばかりは起きてくるでしょう。


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