見出し画像

企業と個人(自分)の成長について

新年の挨拶

あけましておめでとうございます。
そしてお久しぶりです。koipaiです。

2022年にはいろいろとあり、多⽅⾯にご迷惑とご⼼配をおかけしました。
昨年までの⾃分を⾒つめ直し、2023年を新たに迎えるため、稚拙ながら今の気持ちを⽂章に残すことにしました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

本文

はじめに


最初に断りを⼊れておくと、これは成⻑批判の話ではない。
企業という⼈ならざるものの成⻑に、⼈である⾃分の成⻑を重ねて壊れないための感情論である。
ある種の⾃戒でもある。
こんなことについて真⾯⽬に考えるほどのことでもないという⼈のほうが多いかもしれないが、もしいたら読んでみてほしい。

またこれはあくまで僕の観測範囲の話であって、一般論ではない。
僕が在籍した企業、あるいはその周辺で見聞きし体験した物事が、この話の背景にあると思ってほしい。


企業と個人の成長について

企業、とりわけスタートアップ企業の変化は著しい。
上手くいくスタートアップが何かについて僕は語る視点を持っていないが、少なくとも僕から見て上手くいっているスタートアップの変化は著しい。

変化の著しい企業の中で、働く個人は成長を求められる。
個人もまた成長を求めてそうした企業にやってくる。
変化の著しい企業とは、言い換えれば成長の著しい企業だ。
成長著しい企業になるには、経営者や投資家の力量だけではなく、実際にその中で働く個人の価値が不可欠だ。
一方で、どんな成功した企業もはじめから優秀なメンバーが揃っているわけではない。
例外もあるだろうが、それでも100人とか1000人規模で優秀なメンバーを抱えて始まる企業は存在しないだろう。
企業で働く個人はなぜ成長を求められるのだろう。
それは、個人の成長がすなわち企業の成長に繋がると考えられているからだ。

企業の成長とともに、実際にスキルを高めたり幅を広げた人たちを僕も知っている。
一方で、当然ながら企業は個人の働きによってのみ成長するというわけでもない。
例えば大型調達をして、事業への大胆な投資が可能になれば、一個人の働きだけでは到底辿り着けないラインに一気に駆け上がることもできる。
コロナ禍でオンライン会議が一気に加速したように、時勢によって急激に事業へのニーズが高まるということもあるだろう。
企業は、個人の成長以外の要素によって、それより遥かに著しく成長することもあるのだ。

著しく成長する企業の中で、成長を求められる個人はどうなるのか。
ある個人の成長とある企業の成長が同一の曲線を描いている時点では、お互いwinwinの関係が築けるだろう。
しかし、時として企業の成長は個人の成長の先を行く。
追いつこうとしても、人ならざるものである企業の成長に個人が独力で追いつこうとするのは難しい。
個人の成長にはそれこそ個人差がある。
だから企業が著しく成長しても、同じように成長していける人たちもいるだろう。
だが一方でそうでない人たちもいる。
僕はココに、個人が人ならざるものである企業の成長と自分の成長を比べてしまう原因があると思う。

会社が成長してるのに自分は全然だと思う人より、同期や後輩のあの人が成果を出しているのに自分は全然だと思う人のほうが多いのではないだろうか。
企業の中で成長を求められ、また自分自身もそれを求めてそこにやってきて、しかし思ってた以上に周りは先に進んでしまう。
それを間近にしたとき、自分と周りを単純に比べてしまったら何がおきるだろう。
個人の成長には個人差がある、企業の成長は個人の成長の先を行くということを忘れてしまったら。
その気持ちの行き先は「もっと成長しなきゃ」か「今とは別の価値を生み出そう」だ。
今の能力を高めるにせよ、別の土俵で闘うにせよ、どちらも今の自分にないものを今よりも強力に求めていくことになる。
だがそれはいつまで続くのだろうか。
人である自分は、人ならざるものである企業の成長を追いかけて、果たして人であり続けることができるだろうか。
僕個人の経験でいえば、それは不可能だ。
ある時点ではそれが達成できるだろう。
ただそれはあくまで企業と個人の成長曲線が一致している時点の話だ。
解決策として、同一企業内で役割を変更するとか、学び直しをやるとか、あるいは転職するとかのキャリアの話もあるだろうが、個人の感情に目を向けて話を続けていきたい。
ここからはより個人的な話になるので、もしまだ読んでいる人がいたら、あくまで僕の自戒の部分だと思って読んでほしい。

自戒

企業の成長を追いかけ続けるのが不可能なら、成長を求められる個人はどうしたらいいのだろう。
その答えを、僕はまだ持っていない。
ただ少なくとも、企業の成長を、あるいは周りを追いかけるために自分の価値を生み出そうとすることはやめようとは思う。
僕自身はもともと成長という言葉があまり好きではない。
今でこそ死語だが、今の業界に来る前までは「意識高い系」という言葉を使ったりしていたくらいだ。
それでも、これは仕事だけの話ではないが、自分の価値を誰かに認めてほしいと思うことを、自分の生き方の源泉にしていたように思う。
誰かが良いと思うもの、誰かに良いと思われること、こういったものの知識や経験を積み重ねることで自分自身を作り上げてきた。
その延長線上に「スタートアップでの成長」があったのだと思う。
ただある時、それこそ数年前の自分が思い描いていた「誰かが良いと思うもの」に、自分が既になっている気がしてしまった。
自己認識を喪失したような感覚に襲われた。
これ以上、何が自分に必要なのかがわからなくなってしまったのだ。
甘えといわれればそれまでだが、僕には重大な問題だった。

そこから相当に迷走していたが、結局僕は半年間休養することになった。
仕事を休むことになったので、「何が原因だったのか」ということを聞かれる場面もあった。
何か仕事上で大きなストレスがあったのか、とかそんな話だ。
原因はない、仕事は関係ないと答えたいところなのだが、そうもいかないのでいろいろな要因について話してきた。
それは正解でもあるし不正解でもあって、当然いろんな要因があって休むまでにはなってしまったのだが、その根っこは自分自身の問題だ。
幸いにも仕事には復帰することができた。
ただ根本的な問題は何も解決はしていない。
だからこそ今これを書いている。

抱負

自分の存在や自分の価値をソトに求めることに限界を見てしまった自分が先に進むためには、自分自身でそれを見出すしか道はない。
もちろんすぐには見つからないだろう。

幸運にも、僕は休養中に岡本太郎という存在に出会った。
彼のような偉大な芸術家ですら、常に「岡本太郎」を模索し続けていたようだ。
彼の展覧会に行き、彼の言葉を読み、その一端に触れたことで、先に進むための何かを得たように思う。

今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。

「今日の芸術 」岡本太郎

何かはまだ何かでしかないが、
この言葉を見習って進んでいきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?