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青春のすべて

こんばんは。

2024年2月3日、「関ジャニ∞」としての区切りがつく日。
寂しいし悲しいし、色んな感情がありますが5人がすでに前を向いて進んでいく決意をしているので、グループ名が新しくなっても私は変わらず応援していきます。

常に私のそばにいてくれた「関ジャニ∞」との思い出を、せっかくブログという長文を残せる場があるので、記録に残そうかと。
長いしただの自己満で時系列なぞって振り返ってるだけなので興味のない方はさらっと流してもらって大丈夫です。


はじめに

そもそもジャニーズ(現在社名は変わっていますが当時の名称で進めます)をしっかり認識したのはいつなのか。
『犬夜叉』が好きだったので主題歌として触れていたりしたけど、一番のきっかけとしては『ごくせん』。2005年1月、小学生だった私にとってギラギラしたかっこいいお兄さんたちは眩しかった。見事にファンになった。ここから”ジャニオタ”の人生が始まります。

この時点で関ジャニ∞はすでにデビューをしているけど、まだその存在を知らない。関東在住、周りにジャニーズが好きな人もいなかった(はず)、そんな環境だったのでなかなか関西の情報まで入ってこなかった。


2006年

KAT-TUNがデビューの年、年明けからKAT-TUNと関ジャニ∞の『DREAM BOYS』が上演されていたけど、まだ関ジャニ∞のことは特に気にしていなかった。でもここで共演していてくれたおかげで、関ジャニ∞が載っている最古の雑誌の切り抜きはドリボ会見です。

KAT-TUNを好きになったことでジャニーズの知識が徐々に増えていき、色んなジャニーズの人が出るからとMステを見るようになって。
9月1日の回で『∞SAKAおばちゃんROCK』『サムライブルース』『プロ∞ペラ』を披露した関ジャニ∞。なぜか1人だけ高い場所でドラムを叩きながら歌う大倉くんを見て「なんてかっこいい人がドラムを叩いているんだろう…!」と思ったのが、関ジャニ∞と大倉くんを応援することになるきっかけでした。
あと、この時初めて聞いた『プロ∞ペラ』の歌詞の良さに感動して、担任の先生とやってた交換ノートみたいなものに「歌詞がいいんです!」と書いて報告したり。何やってたんだろうね。

初めて買った関ジャニ∞のCDは『関風ファイティング』。大好きな『プロ∞ペラ』が入っているので嬉しかった。Mステの時とメロディーが変わっていたので戸惑った。
あと、発売してからCDショップに買いに行ったのにも関わらず、緑のミサンガがまだ店頭にあってラッキーだったな。確か黄色以外は全色あったかも?

関ジャニ∞のことを好きになったとはいえ、まだまだ知らないことばかり。幸運にもパソコンを与えられていたので情報を集めることができた。「関ジャニ∞」のグループ名の由来、これまでの歴史、過去を学びながら好きを膨らませて、かっこよくて面白い関西弁のお兄さんたちにどんどん惹かれていった。
でも、厳しめの家庭だったこともありファンクラブには入れず、ライブに行く術もなかったので、CDを買ったりテレビで見たりするだけの茶の間で応援する日々が始まります。すばくらコン行きたかった。


2007年

VHSへの録画を覚えたので、祖父母の部屋のテレビで録画させてもらって『スカ☆J』や『むちゃぶり』を見られるようになり、なぜかチバテレビで『ほんじゃに!』が放送されていて、関西ローカル番組なのに見られる!と喜んでいた。
ヨコヒナの『レコメン』を聴き始めたのもこの年ぐらいで、『ズッコケ大脱走』リリース時期にメンバーに生電話してソロ曲の話を聴いてたのが印象に残ってる。夜更かししてたら怒られるので、ラジカセにイヤホンを指して、親にバレないようにこっそり聞いていた。『今井翼のto base』で寝落ちしないかが戦いだった。
関東民の私にとって、『レコメン』は関西弁のスピードラーニングだった。

47都道府県ツアーはネットでレポを読み漁り、いつかは私もライブに行くんだ…!と夢見ていた。仙台の大倉くん泥酔レポが大好きだった。この年のクリスマスプレゼントに『47』の初回盤を買ってもらった(通常は自分で買ったよ)

他に関ジャニ∞のことを好きな人がいなかったので、仲の良かった子に布教する日々。寂しさはあったかもしれないけど、部活もあったし私の熱量もまだ低かったと思う。


2008-2009年

変わらず茶の間の生活を送る。周りは嵐やJUMPのファンばかりの中、安田担の友だちができた。多分学年で関ジャニ∞が好きだったの2人だけだったんじゃないかと思う。
『Touch!eco』の特番を見て、「せっかくフカフカを踊ってるのに大倉くんがいない!」なんて言ったり(廃油集めながらバイク乗ってたからね)、椿くんのために1週間頑張って生きたりしていた。『Can!ジャニ』も始まって、個々のキャラクターとか面白さが分かってきたところだったと思う。
ソロコン行きたかった。

年が明けて大倉くんがThe SHIGOTONINとしてCDをリリースしたり源太が殉死したりとあった2009年。
ついに迎えた私の現場デビューは、先生にチケットを譲ってもらった『カゴツルベ』。安田担の子と一緒に見に行って、初めて生で見たジャニーズは安田くんと風間くんだった(あとちょうど同じ日に見に来ていた松兄。夜の渋谷の街に颯爽と消えていく松兄の後ろ姿がかっこよかった)
ファンクラブに入るのは受験が終わってからと親と約束してたので、ライブには足を運べず。大倉くんに会いたい、ライブに行きたい欲をどんどん募らせながら受験を乗り越える。


2010-2012年

念願のファンクラブ入会。ホテルキーみたいなYJの会員証が届く。青色。

8UPPERSのプロジェクトにワクワクしていた。映画を見に1人で家から少し遠い映画館に見に行った。1人で遠出したのも初めてに近かった。
初めてのライブは8UPPERSの東京ドーム。この時に家の最寄駅まで車で送ってくれた父が「楽しんで来いよ」とお小遣いをくれた。父から特別にお小遣いをもらうのは初めてだったので、すごく驚いた記憶がある。
席はアリーナだった。浮世で上から登場してくる関ジャニ∞がめちゃくちゃかっこよかったしすばるくんの第一声で鳥肌が立ったのを今でも覚えている。生で見る大倉くんはそれはそれはかっこよかった。
ただ、ツアーが始まった当初大倉くんは金髪だったのに東京ドーム前で髪色が変わってしまったことを残念に思ったり、レポを読み漁って大倉くんとまるちゃんが歌う『二人の花』がかっこいいのだと、『TOPOP』は全員安田くんと同じ格好をして出てくるのだと、予習をしっかりした上でライブに臨んでいたので、ドーム公演でのセトリ変更のダメージが大きかった。『二人の花』の亡霊が生まれた瞬間だった。この経験から、ライブは複数入った方が良いんだという教訓が刻まれた。


初めての遠征はFIGHTコンの北海道。高校生で1人では行かせられないとばあちゃんに付き添ってもらい、「基本座ってくれてていいから!」とライブにも一緒に入ってもらった(なんで)。
『Waterdrop』の水演出に「お金がかかっている!?」てなったし、『Dye D?』はステージ上の本人も見たいしMVも見たいしで忙しかった。
Twitterを始める前はアメブロの住人だったのだけど、アメブロを通して知り合った人とこの時初めて会った。その人には今でも仲良くしてもらっていて、もう10年以上のお付き合いになるんだ……と感慨深いものがある。

8周年を迎えた2012年。
YJの合同ファンクラブが解散され、関ジャニ∞単体のファンクラブが発足された。新しい会員証はメンバーの名前が書かれていて、メンバーカラーのデザインが可愛くて常に財布に忍ばせていた。ファンクラブ会員番号1番がすばるくん、2番が大倉くんなのも尊い。

これからも宝物だよ

この時の私は周年なのに受験が被るなんて……と落ち込み、1つのイベントにつき行くのは1公演だけという親との約束があったので∞祭は幕張、8ESTは味スタを申し込んだ。
味スタでは、Twitterで知り合った1個上のすばる担と会った時に通っている大学の話を聞いたことをきっかけに、そこを第一志望で受験勉強に励むこととなる。無事合格して進学したので、そのすばる担に会っていなかったら今の自分はなかった。巡り合わせてくれた関ジャニ∞には感謝しかないです。

ただ、この後親との約束を破ってしまった。ドームの追加公演が決まったことで、8UPPERSの経験から「追加公演は絶対セトリ変えてくるじゃん!見たい!」と衝動に駆られて、Twitterで初めてチケツイ。横山担のお姉さんに譲ってもらうことになったけど、親にはライブに行くなんて言ったら許してもらえなさそうだったから「友だちとカラオケに行く」とウソをついて東京ドームまで行った。正直このウソもバレてたんじゃないか…と思ってるけど確認したことはない。時効だろうし受験も合格したから許してほしい。

あと、高校で校外に行く行事があった時、クラス替えしたばかりで誰にも馴染めず、バスで1人席に座りながら前日の『レコメン』で初解禁された『愛でした。』をひたすら聞いてた……なんて思い出もあったり。


2013-2016年

大学生となり、一人暮らしやバイトを始め、リミッターが外れる。サークルにも入らず「とにかくライブに行きたい!」とバイトに明け暮れ、北は北海道、南は沖縄まで、本当に全国を飛び回った。10周年もあったので、久しぶりの野外公演も思い出深い。ライブを理由で色んな土地に行き、色んなご飯を食べたり景色を見ることができた。移動手段やホテルの予約など旅行スキルはだいぶ身についたと思う。
でも贅沢できる生活でもなかったから移動はなるべく安く済ませようと夜行バスが多くて、夜行バスで大阪から帰ってきて1限から授業とかざらだった。今はもうそんな体力は無い。

初めてクリスマスを名古屋で過ごし、念願のオーラスに入れたJUKEBOX、プレ販に行ったら音漏れでジャニーズメドレーとハチフェスの全貌を知ってしまった十祭、成人式よりツアーオーラスを優先したニズム、ナポリタンのおかわりが止まらなかったリサイタル、大倉くん不在で落ち込んだままサイゼで夜ご飯を食べた元気コン、就活の合間に卒業旅行も兼ねて沖縄を満喫したリサイタル、大雪で飛行機が飛ばず後泊することになり親に「お金が必要かもしれないから振り込んで欲しい」と振り込め詐欺まがいの電話をかけた(けど結局は手持ちのお金で済んだ)エイタメ、など、思い出は様々。

小学生の時に布教していた子をライブに誘ったこともあった。彼女はKANA-BOONやサンボマスターが好きだったので、元気コンに一緒に入った。やっと私の好きな人たちを生で見てもらえたと嬉しかったし、楽しんでくれている姿を見られてよかったなと思う。バクステ前のスタンドに入ったので、ムビステで近づいてくるバンドセットに彼女は感動していた。

ドラマや映画の露出も増え、リリースされる楽曲はタイアップがつくのが当たり前になっていった。関ジャムが始まり楽器のスキルも上達していき、クロニクルではバラエティーでこれまで見たことない一面を見せ、たくさん笑わせてくれた。関ジャニ∞はいつも楽しそうにしていて、その姿を見るのが本当に幸せだった。

Twitter上での交流も増え、たくさんの友人が増えたのもこの時期から。今でも仲良くしていただいてありがとうございます。


2017-2018年

新卒1年目として入社し、不規則で忙しい生活を送る中でも関ジャニ∞が心の支えだった。今まで通りライブに行くことはできなくなったけど、可能な限り足を運んだ。5大ドームツアーの常連となり、年々パワーアップし続け、この7人は無敵なんじゃないかと思わせるくらいの大きさになっていた。
あとは初めて大倉くんの舞台『蜘蛛女のキス』も見に行くことができた。難しい題材ではあったけれど、生で見るお芝居って良いな。

そして2018年。永遠が続くと信じていた世界が一変する。
すばるくんが脱退するという週刊誌の報道にそんなわけあるかと思っていたけど、メールが届き、会見が開かれ、これは現実なんだと目の前が真っ暗になった。会見の日は夕方から仕事だったけど仕事どころじゃなかったし、親からも心配の連絡がきていた。7人で年を重ねて、よぼよぼのおじいちゃんになっても笑っているのだろうと、”ずっと一緒”を信じていた。ウソだと言ってほしかったし、途中でやっぱり脱退するのやめますとなってもいいよと思っていた。でもすばるくんの決心は変わらなかった。会見でふてくされているのを隠そうともしない大倉くんの姿に救われたし、続けることを選んでくれた6人に着いていこうと思った。すばるくんもどうか元気で幸せでいてほしいと願った。
この時期、仕事の面で色々思い悩むことがあったので転職することも決めた。

GR8ESTは、札幌に行く予定だったけど急な仕事が入り、6人のスタートを見届けられなかった。よって私の初日は名古屋だった。名古屋では安田くんの体調やグループの形が変わった不安定さを少し感じたのが正直なところ。でも転職活動を終え、迎えた東京公演は名古屋の雰囲気とはまた違っていた。それは受け取る私のコンディションもあったのかもしれないけど、なんとなく、良い方向に進んでいるなって気がしていた。

そして、私の初海外も関ジャニ∞が連れて行ってくれた。GR8ESTの台湾公演にオフィシャルツアーで参加。オフィシャルでは23日の公演が当たっていたけど、ツアーの日程上、22日のお昼過ぎには台湾に到着できたので、2日連続で入ることができたし、23日はオフィシャルがとんでもない席を用意してくれて、思い出に残る公演になった。

この時作ったパスポートは5年有効にしていたので去年期限が切れた。台湾以降、海外には一度も行っていなかったので更新もしなかった。今後海外公演をやらない限り、これが最初で最後の海外旅行だったかもしれない。


2019年

15周年。10周年が本当に楽しかったから15周年も期待を寄せていた。けどまた不穏な報道があり、十五祭のツアー初日になんとなく覚悟した。2度目ということもあってショックは薄かった分、今この瞬間を目に焼き付けなきゃいけないなと思っていた。関ジャニ∞の歴史がたっぷり詰まったライブで、本当に楽しかった。『二人の花』の亡霊もここで報われた。けどやっぱり寂しかった。
亮ちゃんが6人の関ジャニ∞を引っ張っていこうとしてくれたんだろうなとうっすら感じていた。「チャレンジの方向性の違い」と大倉くんは言っていたし、まるちゃんも進むスピードが違ったと後に話していて、亮ちゃんの方はどのように思っていたか分からないけれど、同じような認識なのかな、歩幅が揃わず苦しかったかもしれない、と考えたりした。誰が悪いとかじゃなくて、仕方のないことだったのかなと。上手く言葉にできないね。
そして私は5人に着いていくことを決めた。亮ちゃんにも元気で幸せでいてほしいと願った。 

あとはこの時ぐらいからかな……決まったことは仕方ない、と割り切るのが早くなった。気がする。

そして2度目の47都道府県ツアーを行うことが発表される。正直この時は何が何だか、情報処理に時間がかかった。亮ちゃんが脱退したタイミングで公開された動画だったから、それどころじゃなくない!?て思ってたけど、5人は前に進もうとしてたんだよなと。本人たちとファンは進む速度が違うからね。私の感じた悲しみ寂しさは本人たちは随分前の出来事なんだと。
5人の顔見せに行きたいとは言え、ふたを開けてみたらなかなかの強行スケジュールにドームツアーをやってる人たちとは思えないキャパ。でも脱退が続いたことで、5人も続けていくことに必死だったのかもしれないなと今は思ったりする。


2020年

5人で歩き出した47都道府県ツアーは、山梨公演に入ることができた。実はこれより前にすばるくんと亮ちゃんの単独公演を見に行っていた。2人がどんな道を進んでいくのか、元気でやっているのか、純粋に見たかった。2人はそれぞれの音楽を奏で歩き始めていた。そして5人になった関ジャニ∞も歌割りやフォーメーションを変えながら前に進もうとしていた。
その矢先に、コロナがやってきた。リモートや配信でコンテンツを届けてくれたり、この状況下でも少しでも楽しませようとしてくれる優しさが温かかったし、関西ジャニーズが集まったドリアイは本当に楽しかった。円盤化してほしい。松竹座は残念ながら大倉くんが不在だったが、いつか5人で立つ姿が見たいなと思ったし、関ジャニ∞の公演で松竹座に行きたいと思っている。


2021年

「Road to Re:LIVE」を掲げて始まった1年。まだまだコロナの影響はある中でライブへ向けてのプロジェクトを進めだした。5人体制初のオリジナルアルバム『8BEAT』は名曲揃いだった。錚々たるアーティストからの楽曲提供があり、それは5人が真摯に活動してきたご縁で繋がった方ばかり。5人の歩みを後押ししてくれているように感じた。

そして久しぶりのアリーナツアー。私は関ジャニ∞のアリーナツアーに行くのがこれが初めて。(リサイタルはイベントとしてカウント)
8BEATは本当に楽しいツアーだった。初日のまるちゃんの涙は忘れられないし、どの公演もずっと楽しくて、声が出せなくても大満足だった。色んな事があったけれど「俺たちは関ジャニ∞でよかったぞー!」と毎公演まっすぐ伝えてくれる村上くんに胸が熱くなっていた。


2022年

18周年の年。大倉くんが約2か月休養に入り、その間は4人で活動していたが、夏の18祭には5人揃ってグループとしては最大規模の日産スタジアムに立った。あの時見た景色は、一緒に見た花火は思い出の一つに刻まれた。スタジアム発ドーム行きで走り出した18祭冬も、夏と同様に楽しいお祭りになった。天丼のプロである関ジャニ∞に本気で笑ったし、やっぱりライブが似合う人たちだと思った。これからも大きいステージに立ち続けてほしいと願うばかり。


2023年

18周年を無事に終え、でも翌年には20周年が控える狭間の年。いったいどんな1年になるんだろうと思っていたら、キャンジャニちゃんの新曲発売やミーグリ、スペースでの昼呑み鑑賞会など、飽きることなく話題を提供してくれていた。
昨年叶わなかったロッキンへの出演で私も初めての夏フェスに参加し、普段のライブでは得られない経験をした。その後の前夜祭では「今日から20周年イヤースタートです!」なんてあまりのせっかちぶりに笑ったり、2年連続で見る花火にこの先もまた一緒に見られたらと思いを馳せたりしていた。
○△▢で伝えられたスケジュールの情報解禁が待ち遠しかった。


2024年

年が明けて20周年に突入と同時に、サブスクでこれまでの楽曲がほぼ配信され、THE FIRST TAKEにも出演し、爆速スタートをかましている関ジャニ∞。通算50枚目となるシングル『アンスロポス』も発売となった。節目節目に授かる楽曲は深い意味を持たせてしまいがちになるくらい名曲ばかりで、『アンスロポス』もそんな一曲になっている。


そして明日、「関ジャニ∞」は改名する。


ざっと振り返ってみたものの、書ききれなかった話もあるくらい、本当にたくさんの思い出を作ってもらったし、色んな初めてを経験させてくれた。
思い出の裏には学校生活や仕事があって、それらを乗り越えられたのは彼らがいたから。友人もできた。色んな場所に行けた。まさに青春のすべてだった。

グループ名が変わってしまうことはやっぱり寂しいけれど過去が無くなってしまうわけではないので。新しい名前でまたたくさん思い出を作っていきたい。






楽しいこと嬉しいこと、悲しいこと辛いこともあったけど、たくさん励ましてもらって、たくさん支えてもらった。生活の一部だったし、生きがいだった。勝手に生きがいにしていた。
出会えてよかった。
「関ジャニ∞」、私の人生を彩ってくれてありがとう。
これまでもこれからも大好きです。

明日から始まる第四章もどうぞよろしく。新しい名前も愛していくよ。


2024.2.3

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