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変わる状況の中でも、「今が楽しい」と思えることをしたい【#わたしたちの厄年 インタビュー】

この記事は、2021年に本厄をむかえたライターふたりによるインタビューサイト『わたしたちの厄年』に掲載した内容を、一部再編集したものです。現在、サイトの公開期間は終了しており、noteでのみ記事を読むことができます。内容は原則、公開当時の情報となります。

女性は30代で2回、本厄を迎えることをご存知でしょうか。今回は、数え年37歳の本厄を過ごした、ひらのさんにインタビューをしました。

映像作品などの小道具制作をしながら、Webデザインにも挑戦したひらのさん。これまでのいろいろな選択の軸となってきた考え方やそれによって得た経験などを語ってもらいました。

30代半ばでのキャリアチェンジで感じた壁

——ひらのさんはご自身が厄年だと気づかれたのが、しばらくたってからだったそうですね。

一緒に仕事をしている人が、今年本厄だと言っているのを聞いて、「同い年くらいだよな」と思って調べてみたら、自分も本厄でした。

これが11月くらいの出来事です。笑

でも、それに気づかないくらいこの1年は比較的おだやかでしたね。去年の方が変化が大きかったなと思います。

——そうだったのですね。何があったのでしょうか。

1番は、働き方を考えたことですね。

10年程、フリーランスの小道具スタッフとして、映画やドラマの撮影現場で働いていました。1日18時間、週7日働き、休みは3ヶ月なし!のような生活です。

やりがいもあるし、好きな仕事なので、楽しかったのですが、一昨年ごろに自分が結婚するかもというタイミングを迎えました。

それがきっかけで、この生活を続けながら結婚して家族と暮らすことは、自分には出来ないなと思って、小道具の仕事を辞めて「せっかくなら新しいことを初めてみたい!転職するか!」と思ったんです。

でも、学校を卒業してから映画の世界でずっと働いてきたので一般的な企業での働き方とか、ほかの世界のことを何も知らなかったんですよ。自分が雇い主側だとしても、よっぽどじゃないと転職は難しいと感じました。

最終的に今は、映像作品の撮影現場には立ち会わずに、小道具を作る仕事を週に4日程度、週2でWebデザインを勉強中の方のサポートをキャリアスクールでしています。

それから、たまにWebサイト制作を仕事も受けています。

——30代に入ってからの新しい仕事に挑戦するのは勇気がいりますよね。その結果、選択したのがWebの世界だったのですね。

2020年にキャリアスクールに入って、Webデザインの勉強を始めました。

勉強をし始めたときはWebデザインを仕事の軸にしつつ、声がかかったときに映画の仕事も手伝えたらいいかなと考えていました。

楽しさの中にあった、かすかな違和感

——その後の働き方としては、Webに専念するのではなく、装飾の仕事も続けられていましたよね。仕事のバランスについてどう考えてきたのですか。

Webの仕事も1年半以上続いていますね。休憩しながらですが。

ただ、最初はWebデザインを「仕事としてやるんだ!」って思っていたんですが、2021年になって、ちょっとモヤモヤが生まれてきました。

自分はWebデザイナーになりたいわけじゃないんだなって気づいたんです。

——すごく順調なように思えたのですが、モヤモヤされていたのですか。

そうなんです。Webサイトをつくるのは楽しいけど、仕事として「看板背負ってやります」というよりも、自分が楽しく作れるという、そのレベルでよかったんだって思いました。

——自らのその思いに気づいたきっかけは何かありましたか。

コーディングとかも学べる、Webクリエイターの養成サロンに入って、2020年の6月ごろに仕事を取るために自分のポートフォリオサイトを作りはじめたんです。

レイアウトの土台が見え始めた段階で、サロンのオーナーの方に見てもらったのですが、「デザイナーとしてどうしていきたいの?」って根元のところを聞かれたんです。

ほかにも大事なことをたくさん聞かれたのですが、うまく返せなくて……。

——それを受けて、ひらのさんはどうしたのでしょうか。

わりとしっかりショックを受けて凹みましたねあの質問に答えられなかったのは、どうしたいのかを自分でわかっていないからだと感じました

それで、1対1のコーチングを受けることにしたんです。

——コーチングというと、コーチの方の質問に答えながら目標を見つけたり、それを達成するための具体的な行動を考えたりするやつですよね。受けてみてどうでしたか。

プロというのはすごいもので。笑

このときWebデザインについてずっとモヤモヤしているのは、明確な目標がないのが原因なのかなと思っていました。

でも、コーチの方が「Webデザインを仕事としてやらなくていいんじゃないか」って言ってくれて、「ほんとだー」って思えたんです。

目の前にいる人のことだったら考えられるけど、そうじゃない人のことまで考えるのが自分にはできないと気づいたんです。だけど、Webデザインを本気で仕事にするなら、それはできないといけない……。

この葛藤がモヤモヤの正体でした。

「楽しい」を選んで、ちょうどいい距離を保っていく

——「楽しい」という感覚がなくなるのであれば、無理に頑張らなくていいという選択肢をもらったんですね。

コーチの方に「楽しめるようにやっていい」って選択肢をもらえて、肩の力が抜けましたね。

でも、苦手なことや嫌なことをすべて否定するわけではありません。根本的に楽しいと思えることをやるときは、苦手にも立ち向かってやっていくものだと思っています。

Webデザインそのものは楽しいんですよ。だから、「楽しい」気持ちを持ち続けられる範囲でやることにしました。

——ご自身の中でものさしがハッキリしているんですね。ひらのさんにとって「楽しい」って思えるのはどんなことでしょうか。

自分の手を動かして何かものを作ることと、自分にその裁量があるのが大事かもしれないです。

あと、周りに人がいるってことですね。

——おぉ。人がいることも大事なんですね。それが条件に入る理由を教えてください。

高校を卒業してから美術の大学に進んで、入学後に金工コースを選んだんです。同じ学年でほかに金工を選んだ人はいなくて、先生と私しか工房にいない、もしくは1人でひたすらラジオを聴きながら作業をしているような日々でした。

そこで「作るのは楽しいけど、ずーっと1人きりで作るのはつらい」って感じましたね。

みんなで作ることが仕事になってるものってなんだろうって考えて、思い浮かんだのが映画の仕事でした。

それで、大学卒業後に映画の学校に入り直して今に至ります。

——もう一度、勉強をしてその世界に入ったのですね。実際にやる前から決めつけるわけでなく、やってみて確かめながら自分のよりよい方を選んでいったということでしょうか。

居心地がいい場所を探すプラス、自分の行った場所を居心地よくするようにしてきました。

アーティストとかデザイナーとかより、職人になりたいと思っていて、美大を目指したとき、最初は美術品の修復を仕事にしようと考えていました。

いざ大学に行ってみたら、みんなすごく絵がうまくて、それに朝から晩までずっと絵を描いているような人ばっかりだったんです。

自分以上に画力も熱意もある人たちの中で、絵で生き残っていくのはできないと思って、素材の加工方法も表現の仕方も幅広い金工を選びました。

18、19歳で自分に何が向いているかわからないし、自分が思っているほどそれに熱意を持てるのかもわからないですから、後から選択できたのはよかったですね。

何事もやってみないとわかりませんから。

変わった日常をいつも通りを過ごす、家族に学んだこと

——2021年は比較的、穏やかだったと振り返っていらっしゃいましたが、その中で印象的なことはありましたか。

明るい出来事ではありませんが、母親が病気になったんです。6月くらいかな。用事があって連絡をしたときにそれを知らされました。

「本当は言うつもりはなかった」って言われたんですけどね。

——ひらのさんから連絡しなければ、ずっと知らなかったかもしれないのですね。

実は詳細はいまだに知らされていないんです。心配だから最初に聞くじゃないですか。「どうなの」って。でも母親から「言いたくないから言わない」って返ってきたんです。

本人が言いたくないんだったら、問い詰めるのはやめようと思って、次に父親に電話しました。

そしたら母親が言わないなら自分も言わないって話すんです。ということは、父親は知っているんだと思いました。

いま両親は2人暮らしですが、母の事情を知っている父がそばにいて、お互いに子どもには話さないと決めたのであれば、まあいいかなと。それ以上聞くのはやめました。

——なかなか難しい決断ですが、ご両親が決めたことを尊重されたのですね。

母が病気になってから、いま70近い父が家のことを全部してくれるようになったんです。割と面白がって自分でなんでもやるタイプではあるけれど、苦手なこともあるだろうし、でも「やりたくない」とは言えないだろうと想像がつきました。

母は母で、いきなり病気がわかって体調が悪いから好きなこともできなくなったわけで。このコロナ禍で外にも出られず、2人きりで生活するのは、精神的に大丈夫かなと心配でした。

でも、コロナが落ち着いてきたタイミングで、様子を見に帰ってみたら、たしかに母親は体調が悪そうでしたが、それでも父も母も2人とも”いつも通り”だったんです。

——”いつも通り”ですか。

もちろん「できないこと」もあると思いますが、2人とも荒れることもなく淡々と過ごしていました。

家族の誰かが病気になるということは、想像はしていたとしても望んでいた未来ではないはずですよね。急にそれが日常になったとしても、今できることをやっていく、受け入れていけるのはすごいって感じました。

——現実になってほしくない生活が日常になってしまったとき、淡々といつも通りを保つのは難しいかもしれませんね。

あと兄が東京で働いていたのですが、母の病気がわかってからすぐに異動願いを出して、2か月後には地元で働いていたんです。会社の方の協力もあってですが、すぐに環境を変えられる、行動の速さがすごいなと思いました。

そんな両親や兄に育てられたんだなって思うと「変わること」の方が普通なんだなって感じたんです。

「そのときそのときで、いいと思える選択をすればいいんじゃん」って考え方が、自分にもあるのかなって。

——家族だからお互いのことをなんでも知っておかなきゃいけないって思い込みがありましたが、「言わない」と決めたご両親、「聞かない」と決めたひらのさん、「そばにいる」と行動したお兄さん、それぞれが家族を想い合っているのが伝わってきます。

わりとドライな親子関係だったんですけどね。それが今はこんな感じなので、今回の本厄は家族のことを考えた1年でしたね。

自分の人生だから、自分で考えて自分で決める

——家族の一つの在り方として、すごくいいなと思いました。子どもの頃の関わり方とかはどうだったんでしょうか。

私はずっと自己肯定感が高く生きてきた方なんです。でも、小さい頃から親に褒められた記憶はほぼなく……。叱られた記憶のほうが多いくらいです。

2年くらい経ってから「あのときのあれ、よかったよね」って思い出して褒められるというのはありました。そのたびに、すぐに言ってよって思ってましたね。笑

なんで、こんなに自己肯定感が高めなんだろうって振り返ったら、両親は「あなたの人生なんだから、あなたが考えて決めなさい」っていう人たちで、自分のことは自分で決めさせてもらってきたことを思い出しました。

——なるほど。ご両親は、ひらのさんが選んできたことを大切にされていたのですね。

その弊害として、わたしは親に相談するということは学ばなかったので、何事も事後報告しかしてこなかったのですが。笑

決めたことを報告したら、びっくりはしているけど、「そう」「頑張りなさい」って感じでした。否定も反対もされたことはありませんでしたね。

唯一、美大を受験したときは「もしダメだったら普通の大学に行ったら」と遠回しにいわれましたが、無事に合格したので。

あと結婚だけは、するまえに報告しました。笑

——わが子の選択をその通りに受け止めるのも難しい気がします。実際にそれを親も守り続けられるかというと、みんながそうではないですよね、きっと。

それができる親に育てられたんだなって思いました。

あと、裁量がないと楽しくないっていうのもここが原点なんだろうなって思います。

——ひらのさんが「今、楽しい」と思えることを選び続けられたのは、そんな経験があったからなんですね。

5年後、10年後どうなっていたいかっていうのを考えるのは苦手なんですが、今と少し先のことなら考えられるんです。

これから先も「今が楽しい」と思える選択を繰り返していきたいですね。

少し先の未来を自分で選ぶ - インタビューを終えて -

仕事への向き合い方、家族への思いを話してくださった、ひらのさん。この1年は仕事に明け暮れて自分のことばかり考えていたという、前回の厄年とは大きく違ったと振り返ります。

大きな回り道をしたと感じることがあっても、その過程にあるすべての経験が今をつくっているんだと思わせてくれるお話でした。

そして、その「今」を後悔しないために自分が大事にしたいものさしもしっかりと持っていました。

30代でもう一度訪れる厄年を、どう過ごしていたいか—— 。自分の未来を作る一つひとつの選択を大切にしていきたいと思いました。

「厄年」という人生の節目に​​
​思うことをありのまま みつめていく


"コロナ禍"で始まった2021年
厄年をむかえたわたしたちは
この1年をどう過ごしていくのだろう

​不安も 悩みも 喜びも ワクワクも
ゆれうごく世の中も ライフステージも
ありのままの思いを 言葉にしてみよう

等身大のわたしたちのまま ここでつながろう

インタビューサイト『わたしたちの厄年』より

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