「所有」の是非について思うこと
1.徹底した「共有主義」
今、にわかに「縄文ブーム」が起きている。
縄文時代は一万年以上、争いのない平和な社会が持続した。
理由は様々あるだろうが、そのひとつに縄文人が「所有」の概念を持たなかったことが挙げられる。
富は所有せず、みんなでシェア。
所有しないのは「モノ」に限った話ではなく、「家族の概念」も縄文時代にはなかったらしい。
・家庭を持つ
・妻帯する
これらも広い意味では「所有」に当たるというわけだ。
「家族」という概念は存在せず、子どもは「家庭」ではなく「社会全体」で育てるもの。
徹底した「所有」の否定が、平和に貢献したのは間違いない。
現在も「シェアリングエコノミー」など、縄文を彷彿とさせるトレンドが次々と生まれ始めている。
しかし「所有」を全否定するのは、少し違うのではなかろうか。
モノを「所有」することで、文明が進歩・発展した側面もあるはずだ。
「所有の是非」について、時代の流れやエネルギーの観点から、考察を深めてみようと思う。
2.モノに宿るエネルギー
「所有」について考える時、次の「ストラディバリウス」の逸話がとても参考になるだろう。
「世界一高い楽器」として有名な「ストラディバリウス」
実際に落札された最高額はなんと、12億7千万円とも。。。
そんな「ストラディバリウス」を「完全再現」しようと、興味深いプロジェクトが持ち上がる。
以下に挙げるストーリーは、葦原瑞穂さんの名著『黎明』からの引用だ。
テクノロジーをフル活用して「現代版」ストラディバリウスを作り出そう。
ストラディバリウスの寸法をナノ単位で計算し、素材もそのままストラディバリウスと全く同じものを使用する。
塗装されているニスの含有成分まで全て割り出し、ストラディバリウスを「完全再現」したレプリカを作り出す。
そうして科学技術の総力を結集した「現代版ストラディバリウス」を、一流のバイオリニストに試用してもらうと・・・
何だこのポンコツは
まるで使い物にならん
弾き始めるや否やすぐに酷評され、全く相手にされない。
なぜ、こんなことが起こるのか。
寸法も、素材も、はてはニスの成分まで・・・
外見はストラディバリウスと寸分違わぬ代物だ。
ここで「エネルギー」について見てみよう。
以下の図を見て欲しい。
人間は「目に見える存在」としてだけでなく、その外側に「エネルギーの層」が広がっている。
肉体
エーテル体
アストラル体
メンタル体
コーザル体
etc…
コーザル体の外側にも「ブッディ体」と呼ばれる層があるようで、こうしたエネルギー的広がりに終わりはない。
そしてこのような「エネルギー」は、人間以外の「モノ」にも同じように見受けられる。
ここで先ほどの「ストラディバリウス」を見てみよう。
「ストラディバリウス」も同じように「モノ」としての外側に、エーテル体→アストラル体→メンタル体…といった各層が含まれる。
そしてアストラル体やメンタル体といった「高次の」層には、製作者や奏者の想い、あるいはそれを聴いた聴衆の感動といった、様々な「エネルギー」が刻まれる。
それがストラディバリウスをストラディバリウスたらしめる「本質」で、「見える部分」における物質的要素は言わばその「反映」といったところだろう。
どれだけ現代の科学技術を結集しても、ストラディバリウスの刻んだ「エネルギーの厚み」を再現するのは不可能だ。
一流のバイオリニストの目はごまかせない。
一流の奏者はモノをモノとして扱うのではなく、その「エネルギー」を相手のハートに響かせる。
それが聴く者の感動を呼び起こし、ひいてはそれが「意識の進化」へとつながってゆく。
一流はそれを分かっているから、単に「見た目」を模造しただけの「レプリカ」には目もくれない。
モノに宿るエネルギー。
それを踏まえた上で改めて「所有」について目を向けると、それまでとは違った側面が見えてくる。
3.「所有」が引き出す「個の才能」
自分の「商売道具」を他人に貸すのを嫌う人はたくさんいる。
そういう人は「道具のエネルギー」が狂ってしまうのを、直感的に知っている。
元大リーガーのイチローさんは現役時代、道具を人に貸すのはもちろん、他人の道具に触れるのも避けていたという。
「他人の感覚が自分に乗り移ってしまう気がする」
そうした理由から、道具にはとりわけこだわっていた。
イチローさんだけではない。
「一流」はほとんどの場合、自分の「道具」に強いこだわりを持っている。
道具の持つ「エネルギー」がパフォーマンスを左右するのを知っており、そのため道具の「ケア」や「手入れ」も怠らない。
そうした中で「所有の概念」をなくしてしまったら、どうだろう?
一流が「一流としての仕事」が出来なくなる。
これは何も「一流の世界」に限った話ではない。
例えば「万年筆」は、ペン先が主に18金や14金で出来ているが、金は素材的に柔らかく、書き手のクセや筆圧によりペン先が徐々に削れていく。
このように同じモノや商品であっても、持ち主によって「物理的に」形状が変化するものも多くある。
「所有」という概念があればこそ、持ち主の才能が最大限発揮され、それがひいては「意識の進化」へと結びつく。
「所有」が対立や戦争をもたらしたのは確かだろう。
けれども、それが「人類の進化」に貢献した側面も否めない。
「所有」することで、持ち主の才能やパフォーマンスが磨かれる。
この世界を生き抜く「個としての強さ」が養われる。
これから世界が「良くなっていく」のは、間違いない。
けれでもそれは「何をしてもいい」ような、甘っちょろい世界ではないはずだ。
「正直者が報われる」ような生易しい世界ではなく、「正直者しか生き残れない」。
これから待ち受けるのは、ある意味そうした「厳しい世界」でもあるはずだ。
生まれ持った才能を徹底的に磨くことで、宇宙や社会に貢献する。
「完全自己責任」と「絶対的自由」
「自己の確立」や「自立」が、何より求められるだろう。
その上でモノを「所有」するのは、一定のメリットがあるはずだ。
宇宙的サイクルとして、これから「縄文」が再興するのは確かだろうが、それは「従来の縄文」と全く同じではないだろう。
「歴史は繰り返す」と言われるが、「全く同じ歴史」が繰り返されることはない。
宇宙は常に生成・発展を続けており、「これから興る縄文」は「従来の縄文」より、何らかの形で進歩・成長を遂げている。
「所有」を完全否定するのではなく、それを「創造性」へとつなげることで「宇宙の進化」に貢献する。
「所有」という西洋的概念を「切り離す」のではなく、「超えて含む」ことで新たな在り方を模索する。
洋の東西、西洋物質文明と東洋神秘主義を統合することで、新たな時代を切り拓く。
「新・縄文文明」において、「所有」は一体どんな役割を果たすだろう?
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