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渋沢栄一の「裏の顔」

今年7月から一万円札の「顔」が、

渋沢栄一に交代する。

長らく一万円札の「顔」を務めた福沢諭吉と交代するのには、

何か「深いワケ」があるのだろう。

渋沢栄一とは何者か?

一般には「幕臣」として

「最後の将軍」である徳川慶喜に仕え、

日本の近代化に貢献した偉人として知られている。

しかし、どうだろう?

「藩閥政治」と揶揄された明治政府において、

「維新の功労者」である薩長の志士を差し置き、

ほとんど「幕臣もどき」とも言える渋沢が

これほどの出世を果たすというのは、

一体どういう訳か。

それを渋沢の「能力」や「才覚」に由来すると説く者もおり、

確かに渋沢が常人離れした傑物であるのは間違いないが、

その背後には必ず渋沢を引き立てた「黒幕」がいる。

タネを明かすと、

渋沢の本性は「幕臣」ではなく、

「皇室のエージェント」であり、

「天皇家の黄金」を管理・運用することで、

日本の近代化に貢献した。

渋沢の上司は徳川慶喜だが、

実はもう一人おり、

それは幕府の勘定奉行として名を馳せた

小栗上野介忠順だ。

小栗は戊辰戦争の際、

主戦論を強行に主張したため、

領地である上州権田村で斬殺されたと言われているが、

これは「偽装死」であり実際は、

米フィラデルフィアへ亡命した。

そこで新たな拠点を構え、

渋沢や益田孝(三井物産の創業者)らに遠隔で指示を与え

日本の近代化に貢献すると同時に、

FRB(米連邦準備制度理事会)の創設にも

深く関与したらしい。

にわかには信じ難い話だが、

この世界は裏で全て繋がっている。

日本の天皇家は世界王室連合の「盟主」として君臨し、

世界初の先物取引市場として「堂島米会所」が開設されたことからも分かるように、

地球経済や世界の金融制度をリードするのは、

我々日本人であるという。

渋沢の場合、

皇室資産の管理は

トップシークレットに当たるため、

「皇室の家臣」としての身分を隠す必要から、

「幕臣」として素知らぬフリをしたのだろう。

渋沢の御令孫で昨年亡くなられた鮫島純子さんは

美智子上皇后の誕生会に毎年招かれるなど、

皇室と親交が深いことでも知られていたが、

それは渋沢の実態が「皇室の家臣」であったからに他ならない。

幕臣でありながら

明治政府の要職を占めた

勝海舟や榎本武揚も

渋沢同様その本性は「皇室の家臣」であり、

明治維新がその実

「負けた側の幕府」によって推進されていたのが

おぼろげながら見えてくる。

世の中におけるほとんどの戦争は

実のところ「八百長」だ。

戦争が「八百長」である場合の大原則は、

「本当は負けた側の方が強い」ということ。

「負ける側」が筋書を書き、

実際にその通り敗北することで、

勝ち負けを超越した「真の目的」を成就する。

「負けるが勝ち」という言葉は、

それを端的に示している。

本当に強かったのは「幕府」の方で、

歴史を詳細に分析すれば

明治維新は偶発的に起きたのではなく、

綿密に企画された開国のための

「一大プロジェクト」であるのが分かるだろう。

この「開国プロジェクト」は、

総合プロデューサー:伏見宮邦家親王
実行責任者:朝彦親王&徳川慶喜

言わば朝廷(皇室)と幕府による合同企画。

「勝者」として知られる

西南雄藩の維新志士は実のところ、

手の平の上で転がされていただけである。

渋沢はそれを、

痛いほどよく分かっていた。

「最後の将軍」徳川慶喜は

現代においても

それほど評価されていない。

中途半端に政権を放棄し、

その後は知らん顔でのんきに暮らした

「無責任な将軍」と思われている。

かつての上司が

正当に評価されないことへの

強烈な憤りがあったのだろう。

渋沢は実業のかたわら

10年以上もの歳月をかけ

『徳川慶喜公伝』を編纂し、

慶喜の事績や真の姿を

後世に伝えている。

これから渋沢が一万円札の「顔」となるのは、

日本にとって大きな意味を持つはずだ。

歴史を動かしてきた「真の黒幕」、

その正体が渋沢にスポットライトが当たることで、

徐々に解明されていくだろう。

「眠りの時代」において

社会を次のステージへと進めるには、

どうしても「スケープゴート」が必要であり、

後世を生きる私達が真相究明に努めることで、

会津藩をはじめ犠牲となった人々の

「鎮魂」も果たすことが出来るはず。

渋沢は一族も含め、

出処進退が見事なことでも有名だ。

それは渋沢が「維新の真相」を

熟知していたからに他ならない。

本当は「負けた側の方が強い」こと。

維新の「大義」を果たすため、

例え汚名を被せられても

気高く散華した「同志」の存在を、

終生忘れることはなかったろう。

自分の地位や立場は、

無数の犠牲の上にある。

「日本資本主義の父」という異名は、

あくまで渋沢の「表」に過ぎず、

彼の「裏面」は

それよりもはるかに奥深い。

渋沢の生きた明治時代は

真相を明かすには時期尚早と判断され、

事の詳細を後世へ伝える一環として

『徳川慶喜公伝』の編纂にも

注力したのではなかろうか。

今年から来年にかけ、

時代は大きく動くだろう。

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