先生とケーキ(BL小説)

 先生の家は、本の匂いがする。乾いた静かな、ちょっと埃っぽい匂い。
 それが今日は、ひどく甘い匂いがした。バターと砂糖。ケーキの焼ける匂いだ。
「どうしたんですか」
 誰か来ていたのかな、と思って聞いてみる。誰か来てちょっとケーキ焼いていくという展開がよくわからないけど、それを言うなら六十四歳の先生の家に二十二歳の恋人がやってくるのもよくわからないかもしれない。
「ケーキを焼きまして」
 先生はいつものようにこたつに入って、本を読んでいる。
「誰が?」
「僕が」
「ケーキ焼くの?」
「たまにね」
 台所を見ると、ケーキクーラーの代わりなのか、ひっくり返したざるの上にスポンジケーキが置いてあった。先生の焼いたケーキ。
「美味しそうですね」
「ベイキング歴、結構長いんですよ」
「ベイキング歴」
 俺もこたつに入る。先生の家のこたつはぬるい。電源が入ってないことも多い。その代わり、春になっても撤去しないそうだ。先生は冷え性だ。足先がいつもつめたい。そういうところもなんだか上品で俺は好きだけれど、先生自身は難儀なものだと思っているようだった。
「イギリスに留学していたときに、その家の人に教えてもらったんです」
「ああ」
 ケーキのことは知らなかったけれど、留学していたことは知っていた。俺は先生のファンだったのだ。
「たまに焼きたくなるんですよ。本にケーキが出てきたときなんか」
「でも先生、あまいもの食べないですよね」
 甘くないものもあまり食べないけど。先生は、すごい小食なのだった。普段は一日二食らしいし。俺の体と先生の体、同じ人間なのに作りが違いすぎる。
「食べないってこともないですよ。そんなには食べませんが」
「じゃあ、一緒に食べますか」
「そうですね。今冷ましてるんで、冷めたらお茶を淹れて、一緒に食べましょうか」
「なんのケーキなんですかあれ」
 あんまりふわふわしてない感じのスポンジケーキだ。いい匂い。
「いちごジャムがあるので、ヴィクトリアサンドイッチケーキにしようかと」
「ヴィクトリアサンドイッチケーキ」
「わかります?」
「ヴィクトリアサンドイッチケーキのことですよね」
「そうですよ。ヴィクトリアサンドイッチケーキのことです」
 食べたことはないけど、一応知っていた。姉が好きなイギリス風のカフェで見たことがある。スポンジでジャムを挟んだだけの、素朴なケーキだ。
「ヴィクトリア女王の得意なケーキだったとか」
「へえ」
 と言ってみたけど、ヴィクトリア女王のこともよく知らない。高校は一応世界史をやったけれど、もう単語をいくつかしか覚えていない。
「おばあさんの家に住んでいたんですけどね、ケーキの焼き方を教えてもらって、いくつか教えてもらったら、それからは僕がケーキを焼く担当になっていました」
 ふっふっふ。先生が笑う。ケーキを焼く、若いころの先生を思った。今よりずっと神経質そうな雰囲気の若い先生が、イギリス人のおばあさんに言われてケーキを焼いているところ。
 あんまりうまく想像ができない。若いころの先生のこと、写真でしか知らない。エッセイで書かれる姿は、もう今の先生の眼差しを通したものだ。俺はそういうところから、何かを思い浮かべるのがへたくそだった。そういう能力は、嫉妬するときぐらいしかうまく働かない。逆に、嫉妬してみればいいのか? 若い先生のケーキを食べた誰かに。そう思って、本気で胸が苦しくなったのでやめた。知りたいけど、あんまり知りたくない。先生の色恋のことを、あまり知らなかった。あまりというか、何も。聞いたこともないし、読んだこともない。そういうことは自分から開示しない人だった。先生は、どんな恋をしてきたのだろう。今よりずっと冷たい印象のあの青年は、誰とどんな風に恋をした。知りたいけど、知ってしまったら絶対に今より苦しむのもわかっていた。
「編み物も教えてもらったんですけど、それはほとんど忘れてしまいましたね。あんまり気が長いほうじゃないので」
「意外だな」
 先生がせっかちなことをした記憶がない。必要がなければずーっとこたつに座っているし。
「編み物作る間にもケーキが何個も焼けますからね。ほしいなら靴下編んであげましょうか?」
「靴下って簡単に編めるの」
「忘れましたね」
「編めないじゃない」
「頑張って思い出しますよ、ほしいなら。というか、今ちょっと思い出してきました」
「手編みの靴下なんかもらってもすぐにぼろぼろにしちゃうと思う。靴下とかすぐ脱ぐし」
「なるほど」
 先生は笑って、俺の足に自分の足をくっつけた。靴下越しでも先生の足は冷たい。
「あったかいですね。どうしてこうなんでしょう」
「筋肉の差じゃない?」
「嫌な話になりそうなので、やめましょう」
「そんなに運動嫌い?」
 尋ねると、先生はふっふっと笑った。何。
「すみません。ちょっと」
「何」
 すねた声が出てしまう。先生はちょっと、目だけにやにやとして俺を見る。
「ちょっと、下ネタしか思いつかなくて」
 俺も噴きだした。
「先生、運動好きなの」
 半分笑いながら尋ねる。先生はもうにやにやとはしていなかった。すました顔で言う。
「ベッドの上ならね。まあ」
 たいしたことのない下ネタだけれど、げらげら笑ってしまった。先生も笑っている。笑いながら、ベッドの上の先生のことを思い出した。ひやりとした乾いた肌。いかにもぎこちなく動く脚。尾てい骨の上だけ妙に温度が高くて、そこに手を当てるのが好きだった。
「こら」
 笑みを含んだ声で先生が叱る。俺の足が、こたつの中で悪さをしたからだった。
「ケーキあげませんよ」
「すみません」
 大人しく引っ込める。いい子ですね、と褒められた。
「そろそろ冷めたころですかね」
 のそのそとこたつから這い出て、先生が立ち上がる。立ち上がる時の先生の動きはぎこちない。具合が悪いのではなく、いつものことだった。細い腰をさすっている。
「手伝いいりますか」
「ジャムを挟むだけですよ。応援でもしていてください」
「がんばれ先生」
 後ろ手にひらひら手を振って、先生は包丁を取り出した。ケーキ用のナイフとかではなく、普通の包丁。
「向こうでは薄いスポンジを二枚焼くんですけど、うちで作るときは普通に焼いて二つに切りますね。オーブンが小さいもので」
 俺に言ってるのか独り言なのか。ゆっくり言いながら、ゆっくりケーキを切っている。台所で腰をかがめている姿はぎこちないのに、包丁の動きは安定感がある。本当に何度も何度も、このケーキを作っていたんだろう。何度も何度も。でも、俺は初めて見る。そういうことってたくさんあるんだろう。そして、俺がまだ見ていないものも。見ずに終わるものも。そう考えると苦しかった。先生が生まれたときに一緒に生まれて、ずっと隣にいて、死ぬときに一緒に死ねたらいいのに。馬鹿なことを考えているとは思っているけど、そうできないのが、正直なところ、本気で苦しいのだった。こたつに入って、ケーキを切る先生を見ながら、生きるとか死ぬとか考えている。精神ばかりが劇的すぎる。
 先生は冷蔵庫から大きな苺ジャムの壜を出した。海外のものらしい。可愛らしいラベルの壜だけど、大きさが可愛くない。
「開きませんね」
 力を入れるというより撫でてるだけのような風情で、先生は諦める。俺は立ち上がる。
「貸してください」
 言いながら手に取って、少し力をこめると、ぽん、と音を立てて簡単に開いた。ちょっと得意な気分になって手渡す。
「ありがとうございます」
 先生は大きなスプーンでジャムを塗る。下側のケーキはざるの上。上側のケーキはまな板の上。たっぷりとジャムを塗り終わると、まな板の上でケーキを重ねた。
「食べますか」
「はい」
「じゃあ紅茶を淹れないと」
 先生がやかんを火にかける。トワイニングの紅茶缶を棚から取り出す。紅茶用の白い大きな陶器のポットを、電気ポットのお湯で温める。特に手伝えることはもうなさそうで、でもこたつに帰るのも気まずくて、邪魔にならない程度に突っ立っている。
「たくさん食べます?」
「できれば」
「じゃあ大きめに切りましょう」
 と先生はケーキに包丁を入れた。俺の家でやるみたいに一気に何等分にするのではなく、中心まで包丁を入れて、それから一ピース分切り取る。俺には大きめに、先生のはその半分ぐらい。二ピース分欠けた丸いケーキが残る。
「あとは誰と食べるんですか」
「一人で食べるんですよ。朝と夜。ごはんの代わりに」
 カップとお皿のセットを出してくる。白地に青い薔薇の柄。なんとも優雅だ。いつもお茶やコーヒーを注いでいる何かの記念品のカップとは全然違う。
「体に悪いですよ」
「まあ、いまさらねえ」
 やかんのお湯が沸く。先生はゆっくりとぎこちなく、でもきちんと紅茶を淹れ、ケーキをお皿に盛る。
「運びましょうか」
「そうだね」
 先生の家のこたつはやすっぽい天板で、安っぽい布団だ。そういうことにあまりこだわらない人だし、実際安いものなのだろうと思う。その上に、瀟洒なティーセットとケーキ。舶来もののケーキ皿は結構大きくて、こたつの上は狭い。とりあえず並べ終えると、先生は紅茶を注いでくれる。優しい音。優しい匂い。
「どうぞ」
「いただきます」
 ケーキは美味しかった。
「ハイカラなケーキですね」
「ハイカラですか」
「生地が……ずっしり? してるのが」
 ああ、と先生はうなずいた。俺はずっしりしたケーキをもう一口食べる。バターの香りがして、苺ジャムの酸味が嬉しい。あまり食べ慣れないけれど、素朴で、美味しいケーキだった。
「日本のケーキはもっとふわふわしてますよね。あれ、僕の腕力では無理なんですよね。卵をすごく泡立てないといけないんですよ」
「へえ」
「これはそんなに泡立てる必要ないですからね。おばあさんでも作れる。僕みたいなおじいさんも」
「おじいさんではないかと」
「じゃあおじさん? 僕はおじさんよりは、おじいさんがいいなあ。おじさんて、嫌ですよ」
 ケーキをフォークでつつき、唇を尖らせた先生には正直、おじさんでもおじいさんでもなく、お嬢さん、とでも言いたいような雰囲気があったけれど、ややこしくなるのでやめておく。俺の恋人はお嬢さんみたいなおじいさん、なわけだ。そういう人に、ケーキを焼いてもらっている。
「しかし、食べてくれる人がいるのはいいですね。一人だとやっぱりね、作りたくなっても、食べることを考えるとおっくうになる」
「そんなもんですか」
 俺は作る方がよっぽどおっくうだけどな、と思う。でも先生がケーキを焼けと言うのなら、喜んで焼くだろう。ふわふわのスポンジも、よくわからないけどやってみる。せっかくの腕力だ。俺はおじさんでもおばあさんでもおじいさんでもない。若い男だから。
 そういえば、と先生が言う。
「ヴィクトリアサンドイッチケーキのことで、思い出したんですけど」
「はい」
「ヴィクトリア女王のこと、どのぐらい知ってます」
「え……わかんないです。椅子の脚にカバーかけてた時代の人ですか?」
 ふっふっふ。適当に思いついたことを言ったら、先生が笑いながら口元を抑えた。
「まあ……まあね、そういう話もありますけどね。夫と仲がよかったそうですよ。夫の死後ずいぶん長いこと人前に出なかったとかで」
「へえ」
「ヴィクトリアサンドイッチケーキってね、女王が夫とのお茶のときによく作ったケーキらしいです」
 へえ、と、言いかけて、言葉の意味を、もう一度考えてみる。
「それ」
「はい」
「俺、喜んでいいんでしょうか」
 先生は笑う。
「お好きなように」
 なので、喜ぶことにした。先生のヴィクトリアサンドイッチケーキは、とてもとても美味しい。

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