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お城へ To Go (岡山城)

 カラスのような漆黒の天守、岡山城(70・岡山)です。押印は平成23年11月20日、天守閣入口で押しました。
 築城期は室町ですが、宇喜多氏により近世城郭となり、その後、小早川、池田の改修により現在の形に落ち着きました。多くの櫓がかつては国宝だったのですが、岡山大空襲によって天守と石山門が焼失してしまい、現在の天守は昭和41年に再建された鉄筋コンクリート製です。

 とにかくこの城は、大名庭園の最高傑作と称される「後楽園」がみどころ。旭川を隔てた対岸に庭園が位置し、庭園から見ると天守が借景とされています。内部は水路を巡らせた起伏ある地形となっており、季節ごとの変化に富み、夏期には「幻想庭園」としてライトアップも行われているようです。
 また庭園内には、一階に水路を通した珍しい様式の建物「流店」などもあり、とても印象に残っています。

 そもそもこの城の前身とされるのが「石山城」といわれ、その後、金光備前が在城していたのですが、これを「資性奸佞にして智あり」と称される宇喜多直家が謀殺、城を奪取しました。
 ちなみにこの直家、権謀術数に長け、性格の酷薄さから周囲に相当恐れられていた人物で、弟ですらも兄の前に出るときは鎖帷子を付けたとも言われる乱世の奸雄です。かつて大河ドラマ「軍師官兵衛」だと陣内孝則さんが演じていました。

 この宇喜多家は、直家の息子秀家も起伏に富んだ人生で関が原敗戦後、八丈島流刑となり84歳まで生きていました。ここもまた奇遇で、この関ケ原敗戦の主役とも言える小早川秀秋が、秀家の後にこの岡山城に入っており、短期間でかなりの大規模改修をおこなったといわれます。
 この理由は、恨まれているであろう宇喜多の後に入るのが嫌だったからとも言われるのですが、どうなのでしょう。巷間いわれるほど小早川秀秋は暗愚ではなかったのではないかとみることもできます。
 あまりに急な死、さらには関ケ原本戦における松尾山での真相なども再解釈されていることから、次の池田への重要なつなぎ役であったのかもしれません。

 いずれにせよ、謀略家の直家の息子秀家を、どうしたことか秀吉はものすごくかわいがり、この岡山城築城にあたっても全面的に支援したというのですから、ここにも何かありそうですね。
 結構このあたりの事情は、歴史小説でよく言われるような流れとは、全く違った真相があるように思えてなりません。そんな妄想をしながら訪ねてみるのも楽しいかもしれません(笑)

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日本の城 改訂版 130号 (岡山城) [分冊百科]
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宇喜多の捨て嫁 (文春文庫)
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配信元:裏辺研究所

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