見出し画像

真理ではなく、実践もしくは最適解である、ということ

 最近、あらためて思うのは「統合医療」という用語の曖昧さ、です。というより、それによりさまざまな人が解釈、思い込める幅の広さ、とでも言えるでしょうか。現代医療と代替医療一般を「統合」したもの、というのが原意ですから、当然と言えば、当然の帰結でもあるのでしょう。(これは実は「医療」という言葉一般にもあてはまるのですが、これはまた後で)

 そこで、自分の考える「統合医療」の実態に一番近い用語、概念を見つけようと考えたのが、かつて自書(『武術と医術』)の中でも公開した「プラグマティックメディスン」という概念です。
 思いついた当初は、まだそれほど内容が固まっていたわけではないので、しばらく自分の中で醸造していましたが、徐々に形になってきたのでここらでまとめておこうと思います。

 プラグマティックメディスンは本来、pragmatism supported medicine(プラグマティズムが支える医療)ともいえる概念ですが、長くなるので、とりあえず「プラグマティックメディスン」と称しておこうと思います。(これを本ブログ内で別角度から表現してきたのが、可能性のための医療や、こちらの医療、ということになります。少し意味合いが違うところもありますが…)

 いずれにせよ、プラグマティズムという思想が支える医療で、これは合理主義に基づく論理実証主義が原則とする医療(EBMの概念もこちら)との相違は、そこに絶対的な真理なるものを想定するか否かの違いとなります。これはプラグマティズムという思想・哲学に由来するものともいえます。(どこかに「真実」があるかという点が最大の分水嶺となります)

 プラグマティズムにおける真理の多元性が、ジェームスのいう「多元的宇宙」という世界観であり、これは当然、教条主義的な「真理一元論」とは大きく異なるものになります(ちなみにみせかけの多元である折衷主義は教条主義へと縮退するのですが、これもここだけでは分かりにくいですね)。
 真理一元論は、我々の素朴な世界観そのものですから(真実は一つ!)、この辺りが一番誤解されそうな難所になります。

 ここで、統合主義はどう解釈されるかというと、これは多元主義の要素内での融合の一形態と見ることができ、また別解釈としては多元主義的な状態そのものをも意味するといっても良いように思います(ウィルバーのインテグラル理論などはこちらに近いでしょう)。つまり統合という語は、人によってかなりの解釈の幅があることに気づかされます。

 それでは「プラグマティックメディスン」としての要諦は何でしょうか。それはなにより「プラグマティズム」という思想なのですが、これがまたまた誤解の多い用語で、問題ありなのです。
 そもそもプラグマティズムには、提唱者が事実上2人いるような状態で、かつその後の展開においてもかなり人によっての解釈が異なります。加えて、結果よければすべてよし、みたいな浅薄な解釈が広く流布されているので、さらに誤解は広がります。
 そうした中で、ここではウィリアム・ジェームズのプラグマティズムの格率に基づくとしておきましょう。これにより世界観としては「多元的宇宙」が採用され、多元主義に基づいた展開になります。

 しかしこれだけでは効能・効用主義的な側面だけが強調されかねないので、その補強的な観点も不可欠です。
 それが近年、ケアの世界に新たな視点を与えたと言われる「中動態」の思想です。國分功一郎氏によって脚光を浴びた概念で、主に言語学的な考察から引き出されたものですが、それゆえに我々の「意志」や「責任」というものへの理解の根本を揺るがせるものでもあります。出来事の流れ・自然の勢い、というものの重要性というか、根源性をあらためて感じさせてくれるようにも思います。
 個人的にはジェームズの言う根本的経験論や純粋経験といった概念との強い関連性も感じさせられます。これにより、いかにもな「エビデンス」のみならず、またいわゆる「意志」によらず、「選択」するという本来自然な出来事の肯定がなされることになります。

 これは選択肢の決定が重要な意味を持つ統合医療分野において、決定的な意義を有することになると思います。統合医療臨床について考える際、とりわけ医師の立場においては、多元的な選択肢から選択が、その中核となるのはいうまでもないでしょう。それゆえに、プラグマティズムと中動態の思想が、中心となるわけです。これが、まさにこの医学体系の要諦です。(そしてそれは何を根拠にするべきかということが、最大の問題となるわけです)

 大枠としてはここまでで良いのですが、私自身の具体的方策も示しておきましょう。(これはあくまでもプラグマティックメディスンとしての一展開例でこれこそがプラグマティズムという意味ではありませんので誤解無きように)
 まずは中動態的な対話、大きな方針の模索という意味において、オープンダイアログ・ジャングルカンファレンスといった会話・対話の方策です。
 続いて生体観としては通常の解剖生理はさることながら、それらの図と地の反転として、無意識を司りうるものとして、トランス、ファシア、腸内環境(脳腸相関)を挙げておきます。
 ファシアは、さらには「皮膚」との関連も密接ですし、腸内環境は「栄養」とも大きな関連を持ちますので、これらも重要な要素となります。(ファシア・腸内細菌は最大の臓器でもあり、同様に皮膚・脂肪も最大臓器といえる)
 また、ある種の無意識の取り扱いとしてトランスは重要です。意識領域より無意識ははるかに大きいもので、マインドフルネスをはじめ様々な技法も考慮されます。

 その他にもいろいろな展開があるのでしょうが、現実の診療においてはこのようなところでしょうか。いずれにせよ、この医療体系は、換言すれば、現実(瞬間・実際)の身体の流れに従う医療、ということになります。つまり、プラグマティズムの要諦である現実の選択を、多元主義に基づいて、「意志」ではなく身体の流れによる「選択」に従う(これは無意識の領域といえるのではないだろうか)、ある種の「従病」とも言える医療の姿勢です。
 こうした考えは、脳科学的に「自由意志」の存在が疑問視される中で、我々自身の生命を育む新たな思考体系の試みとして、一つの選択の根拠になると考えられます。
 当然、この他にも多くの根拠がありうるわけで、いわゆる科学的データとしてのエビデンスのみならず、何らかの根拠によって、統合医療の選択が行われるべきである、ということの重要性は科学哲学者の伊勢田哲治教授も、先日、述べられておりました。

 何をもって根拠として選択していくのか、という問題は、その方法論としての科学論のみならず、実践哲学としてのプラグマティズムからも考察していかなければいけない大きな問題です。これは日常診療における問題では、通常の診療医と、産業医の業務の違いなどにも生じる問題で、真実は何か、という問いではなく、その時の「最適解」は何か、という問いになるものであるということです。つまり、統合医療においても同様に求められるのは、唯一真理ではなく、時に応じて変化する「最適解」であるわけです。
 こうした点が、産業医を最近学ぶ中で大きな気づきとなった点で、統合医療的視点は、すでに産業医的な視点の中にあったということを改めて発見した、というわけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?