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お城へ To Go (名古屋城)

 天下普請の巨城、名古屋城(44・愛知)です。押印は平成21年9月14日ですが、以後も何度も行っております。ただ本丸御殿の復元が完成してからはまだ未訪問ですので、ぜひとも行ってみたいと思います。

 数々の天下普請の中でも、築城技最高峰を結集した築城の集大成ともいえる城で、天守は、作事奉行は小堀遠州、大工棟梁は方広寺大仏殿を建てた中井正清、大工頭は熱田神宮の宮大工で安土城天主をの建てた家系でもある岡部又右衛門、といった当時の最高峰が結集しています。
 五重五階、地下一階の天守に、二重二階、地下一階の小天守が続く連結式で、通常は渡櫓で連結するところを、土塀付きの橋台を用いて、防火区画を形成しているのです。
 また清正による当時最高峰の、堀底から20mに及ぶ高石垣の上にこの天守が聳えたつわけです。まさに壮大な石垣の城郭です。
 さらにすごいのは防御施設とし地下一階の天守入り口は、小さな枡形を形成し、二重構えになっています。天守内に入ってからさらに枡形なんて、ちょっとほかの城では考えられませんね。
 また名古屋城には当初、江戸城よりもはるかに大規模な総構が計画されていましたが、大阪城落城によりその必要性がなくなったため、工事は中止になったようです。

 そもそもこの名古屋という地は、今川の流れの那古野氏の領有した地からきたようです。現在の名古城二の丸に、今川氏が「柳の丸」を築城、そこを織田信秀が奪取し、那古野城と改称したのが始まりとされます。
 その後、信長に譲られており、徳川家康の人質の時期でもあるので、ここにいたこともあったのかもしれません。

 また今日の名古屋の発展は、この城から始まったもので、まさに「尾張名古屋は城でもつ」といわれる通りです。
 そもそもこのあたりで栄えていたのは清須だったのですが、それを無理やり強制的に「清須越し」として都市機能を移転してしまったのです。
 当時の記録で、この清須越しによりこれほど栄えている清須が、荒れ野のような那古野みたいになってしまうのか、のように書かれたものがあったようなのですが、まさに今、清須に行くと、その当時の人たちが予想もできなかった状態になっていることがよくわかります。きれいに逆転してしまったわけですね。

 それほどの名古屋城も、象徴であるシャチホコを戦災から守るための作業をしていた際、その作業用の足場に焼夷弾がひっかかり、建物自体に引火、2時間余りで天守は焼け落ちたといいます。なんとも皮肉な顛末です。
 この時シャチホコも焼けて、無残な金塊となったというのですから、当時の名古屋の人達の落ち込みは相当だったのではないでしょうか。

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配信元:裏辺研究所

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