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あの頃の自分(高校生編)

こんにちは。あの頃の自分3投稿目は高校生の時のことをお話しできればと思います。


やる気と期待で入学

先に言うと僕は高校受験でテスト等は受けず、ありがたいことに特待生という形で神奈川県の私立向上高等学校に入学しました。

なぜこの高校に決まったのか。
それは前回の投稿でもお話した通り、横浜瀬谷ボーイズは選手を沢山の高校に輩出しているチームでその繋がりもあり、向上高校に進学することができました。

決まった時は一瞬で、中学の時、向上高校の監督さんが横浜瀬谷ボーイズの練習を見に来られた時に、僕は横浜瀬谷ボーイズの監督さんに呼ばれ「お前、向上な」と言われ話が進み特待生という形で願書を受け取り、決まりました。笑

そもそも進学先が決まっていない時、横浜瀬谷ボーイズの監督さんが僕に「お前は暖かいところで野球をしたいか、寒いところで野球がしたいかどっちがいい?」といわれ僕は「暖かいところがいいです」と答えました。

それからは最初は九州の甲子園常連高校2校のお話がありましたが、やはり埋もれるよりは必要とされる高校に行った方がいいのと、特待生という形なので親孝行もできるかと思い向上高校に決めました。

入学した頃は特待生だからといって鼻高々になったり、ベンチに入れるだろという気持ちは全くなく何で僕なんだろうと思う方でした。

高校の練習が始まると1年生はボールを触らせてくれない。

というのはなく1年生のうちからもキャッチボール、シートノック、ブルペン、バッティグ様々な練習ができました。ですが1年生の頃はやっぱり走りが多かったイメージがどこかにあります。笑

グラウンド自体当時は大きくはなく、ライト側はサッカー部のコートもあり、試合もできないくらいの広さでした。内野一面とTバッティングゾーン、ブルペン7箇所、バッティングゲージ、このぐらいでした。(↓当時のグラウンドの写真です)

でも環境として非常に恵まれていたので、ここで背番号1をとって甲子園にという目標がありました。
1年生の夏はベンチ入りができず、秋は背番号20,21とギリギリメンバーに入ることができ公式戦にも1度登板しました。

絶望の冬

秋の大会が終わると高校野球はオフシーズンに入ります。それが僕にとっての絶望への入り口でした。


僕は入学当時、身長が175cm、体重が58kgとガリガリで倒れるんじゃないかぐらいの体型でした。

そこでチームの企画として正確には覚えてませんが6kg,7kg,8kg,9kg,現状維持といった首脳陣が各選手に求めている値のグループに振り分け、3ヶ月〜4ヶ月の間で増やしていくというのがありました。

僕はもちろん1番値の大きい9kg増加グループ

先輩1人と僕の2人で必死に声を掛け合って体重増加に励みました。

その結果
測り初めは61kg。
体重が上がったのは4kgほどで65kgぐらいにしかなりませんでした。

今だから言えますが、やはり高校野球のあの運動量の中3ヶ月ほどで9kg増やすのはきついでしょっと当時は思っていました。笑


気づいたら暗黒時代

高校2年になると僕は毎日のように監督さんに怒られてばかりいました。監督さんの期待が大きかったからだと思います。
自分の意見も持たずただやってるだけ。
何をやっても怒られる。

本当に負のスパイラルに落ちてました。

怒られる→落ち込む→ミスする→怒られる
自分が悪いのですがこれでは全くうまくなろうにもなりません。
一度は野球部を辞めたいと思うようになったことも、物に当たったこともたくさんありました。

3年間でこれほど怒られたのは僕だけだと思います。笑

それもあって高校2年の夏、技術や信頼もなくベンチに入ることはありませんでした。
また秋の大会はベンチには入りましたが、スパイラルに陥ってたので試合のことなどまったく記憶にないぐらい一瞬で2年生が終わりました。。


暗黒時代を乗り越えて

年を越して高校3年になる少し前の話。
Aチームにいた僕は山の階段を登り下りするトレーニングがあり、そこで足首を捻挫して怪我をしました。

最後の年になる時に、ましてやピッチングの状態もよくなってきている中で、何でこんな怪我したんだろうと自分を責めました。

そこから怪我人生活。
その時A〜Dチームがあり僕はAチームでしたがDチームに降格。

怪我が良くなるにつれ監督さんからもピッチングのアドバイスをもらいつつCチーム、Bチームと徐々に這い上がりAチームに戻ることができました。

その苦労もあってか春の予選では背番号11、県大会では背番号10をつけることができ、県大会初戦の先発を任されました。

再び負のスパイラルへ

ここで自分自身いい方向へと向かっている時、再び上でもお話しした負のスパイラルに陥ってしまいました。

何をやってもうまくいかない日々。

自分が嫌になるくらいになりましたが、周りの仲間に支えられ何クソと思い始め今まで思ったことがなかった「もう最後だし吹っ切れよう」という気持ちが芽生えました。


きっかけ

その"吹っ切れ"があってからか高校3年の夏の大会のまえの練習試合で、今までにないくらいのピッチングができ練習試合が終わった後のミーティングで監督さんから「お前もやっと一皮むけたな」と言ってくださいました。

その時のことは今でも忘れられないくらい
嬉しい気持ちでいっぱいでした。

ここまでたくさん苦労して悔しい思いして良かったと思う日がこの日でした。

その後背番号11をもらい夏の大会が始まると、登板することすらできませんでしたが、仲間と戦えたことを誇りに思います。

最後に

この高校3年間は本当ににいろんなことがありました。
ですが最終的にはいい形で終われて良かったのかなと思います。

夏の大会終わってから次の進路はどうするか考え始めた頃、もともと大学に進学して野球を続けるということは考えていたので、監督さんにそのことを伝えてある大学の練習会に行くことにしました。

そのお話はまた次回書かせていただきます。

次回、大学生編part1お楽しみに✨

読んでいただきありがとうございました🙇‍♂️
次回もよろしくお願いします🤲

小井手和宏

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