思い出される人のこと④

さて、埼玉屋の兄ちゃんと悶着があったりした翌年のことです。
私は、幼稚園に通うことになりました。
保育園よりは少し近い所に幼稚園ができたのでした。
とはいえ今地図で確認するとそんなに近くはありません。
ただし、この幼稚園は保育園とちがって送り迎えがありました。
とはいっても最近のようにスクールバスの送迎があるのではなくて、先生が一人、決まった場所まで送迎してくれるのでした。

通園経路

 通園経路を当時の地図に落としてみると上記のようになります。
 赤い星が私が当時住んでいた場所で、黄色の星が集合場所、青い星が幼稚園の所在地です。
 通園経路は、青い線のように歩いたと記憶します。
 直線距離としては近いのですが、大きく迂回して歩いていたことがわかります。
 直線で移動しようとすると、途中に低地がありここが当時は田んぼになっていて道がなかったためにこのようなルートになったのだと思います。
 実際にあるいた距離として、多分1.5kmくらい。
 幼稚園児とっては結構な距離であるとと同時に、私の場合は以前通っていた保育園と対して変わらない距離であったと思います。
 母親としては、自分が働いているわけでもないのに保育園というのが落ちつかなかったのと、なんとなく幼稚園の方がイメージがいい、というのがあつたのだと思います。
 それとやっぱり、送迎してもらえるというのが楽で安心であっだと思います。

 さて、どんなところで待ち合わせたのか、、、。
 集落に沿って歩いてくると私の家がどん突き当り、そこから、私の家の裏側(東側)は畑、私の家の横手(北側)は雑木林。その間に道があって、そこを上がったところが集合場所でした。
 一本の松の木が畑の畔にひょろっと生えていて、父はその場所のことを一本松と呼んでいましたが、それは父だけの命名なのか、一般的な地名だったのか、他の人からは聞かなかったような気がします。
 さて、そこに集まった子供ですが、私と、妹は3つ違いなので、多分入れ違い。私の家から雑木林の中に入った方に、その後二件家が建って、そこの手前側の家に姉妹がいて、姉の方が私と同じ年。その子がいたことは記憶にあります。
 それ以外はなんだか曖昧なんですが、他に何人かはいたのだろうと思います。
 どこか他の所でも子供たちを拾いながら、たっぷり時間をかけて歩いたのです。
 幼稚園に行くまでの間はどんな様子であったのか、記憶になにもないのですが、冬の晴れた日には、集合場所辺りから富士山が見えたことを記憶しています。
 当時は今より寒く、真冬には水たまりに氷が張ったり、水道管が破裂するなんてこともたまにはありました。
 冷たく張り詰めた空気と、はるかかなたに見える富士山。子供ながらに神々しく感じたものでした。
 引率してくださった先生は、薄永先生といいました。
 園長先生でした。おなかが出た、ちょび髭の先生でした。
 新しく幼稚園を作って、生徒募集のため、ちょっと遠方の途中まで足を延ばして、そこの送迎は自分がやったんだと思います。
 今なら、送迎バスが普通ですが、当時はそんなものはなかったのでしょう。
 薄永先生の風貌は思い出すのですが、それ以上どんな先生だったか思い出せないのです。
 富士山が見えたということ以外は霧のかなたの幼稚園、それだけ時間が経過したのですね。


 




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