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第18回 「1960年代東宝のドル箱だったクレイジー映画」

1962年から1971年まで続いた東宝クレイジー映画は30本で、その一つ一つに笑ったり、落ち込んだ気分を救ってもらったり、植木等さんのような有言実行の大人になりたいと思ったり、とにかく見終わった後、爽快な気分にさせてくれました。東宝クレイジー映画の詳細は、娯楽映画研究家・音楽プロデューサーとして活躍の佐藤利明さんたちが編集した「クレージー映画大全 無責任グラフィティ」(フィルムアート社)で紹介されています。

東宝クレイジー映画は1962年7月末に封切られた「ニッボン無責任時代」(監督古澤憲吾)に始まり、予想外の大ヒットを受けて急遽製作、正月映画として12月公開の「ニッボン無責任野郎」(監督古澤憲吾)へと続きます。私が映画館で初めて見たクレイジー映画は小学校5年生の時、1963年3月に封切られた次の第3作「クレージー作戦先手必勝」(監督久松静児)で、母方の祖母と神戸の三宮東宝で見たのを覚えています。併映作品は加山雄三さん主演の時代劇「戦国野郎」(監督岡本喜八)で、祖母が加山さんを見たくて連れて行ってくれたのか、クレイジーを見たかったのかは、わかりません。クレイジー全員が"よろずまとめや"を開業し、大活躍する話で、冒頭、植木等さんが夢の中で、当時冷戦真っ只中の米国ケネディ大統領とソ連フルシチョフ首相の仲をまとめるシーンが印象に残っています。

高校を卒業するまで広島市で育ったので、その後のクレイジー映画はほば広島東宝で見ていますが、1963年12月に正月映画として公開されたクレイジー初の海外ロケーション「香港クレージー作戦」(監督杉江敏男)は、父方の祖父母が暮らす高松で親戚の大学生のお兄さんから誘われて、高松東宝で見ました。香港の実力者・張さんを笑わせるために、クレイジー7人が繰り広げる音楽コントに目を見張りました。併映は特撮ものの「海底軍艦」(監督本多猪四郎)でした。

中学3年生の1966年正月に公開された「クレージーの無責任清水港」(監督坪島孝)は広島東宝へ父と行った思い出があります。当時、右足の膝小僧の下の骨が隆起し、正座できないくらい痛くなっていたので、手術が必要かどうか広島大学病院で診察してもうことになり、父と一緒に行って見てもらったところ、手術の必要なしという見立てでホッとしました。気分がスッキリしたところで映画でも行こうということになり、病院の帰りに見たのがこの映画です。追分の三五郎の植木等さんと森の石松の谷啓さんが、牢屋で意気投合し、エレキ演奏の「遺憾に存じます」を時代劇バージョンで歌ったのが印象に残っています。併映は「社長行状記」(監督松林宗恵)。
このように「この映画は昔、誰々と行ったなあ」と懐かしく思い出すことがありますが、広島東宝、高松東宝、三宮東宝…今は全てなくなっているのはちょっと寂しい気がします。

クレイジー映画の人気ぶりを興行収入のデータから検証すると、ベストテンに入ってくるのは、1965年度からです。
1965年度(以下、かっこ内の数字は配給収入 億円)
1位「赤ひげ」(3.6) 、2位「網走番外地北海篇」(2.9)、3位「関東果たし状」(2.5)  7位にクレイジーキャッツ結成10周年記念映画の「大冒険」(2.1 監督古澤憲吾、特技監督円谷英二)、8位に前述の「クレージーの無責任清水港」(1.8 監督坪島孝)と2本ベストテン入り。
1966年度
1位「網走番外地大雪原の対決」(2.4)、2位「絶唱」(2.4)、3位「網走番外地南国の対決」(2.3) 、4位に「レッツゴー!若大将」(2.3)、5位「アルプスの若大将」(2.3)と若大将が初のベストテン入り。6位が「クレージーだよ天下無敵」(2.0 監督坪島孝)、8位「クレージーだよ奇想天外」(1.9 監督坪島孝)、10位「クレージー大作戦」(1.9 監督古澤憲吾)と3本ベストテン入り。
1967年度
1位「黒部の太陽」(7.9)、2位「日本の一番長い日」(4.4)、3位に東宝創立35周年記念映画ラスベガスでクレイジーキャッツが歌い踊る「クレージー黄金作戦」(3.2 監督坪島孝)、4位「クレージーの怪盗ジバコ」(2.4 監督坪島孝)、6位「日本一の男の中の男」(2.1 監督古澤憲吾)とこの年も3本ベストテン入り。因みに5位は「ゴー!ゴー!若大将」(2.2)
1968年度
1位「風林火山」(7.2)、2位「連合艦隊司令長官山本五十六」(3.9)、3位「博徒列伝」(2.1)
4位が「クレージーメキシコ大作戦」(2.1 監督坪島孝)、5位は谷啓さん主演の「空想天国」(2.0 監督松森健)と2本ベストテン入り。因みに6位「フレッシュマン若大将」(1.9)
1967年のゴールデンウィークに当時では珍しい一本立て公開されその年の日本映画興行収入第3位に入った「クレージー黄金作戦」は、いまだに"日本一ゴージャスな喜劇映画"と思いますが、いずれ詳しく紹介する予定です。その大ヒットを受け、翌年1968年のゴールデンウィークにやはり一本立てで公開された「クレージーメキシコ大作戦」について触れたいと思います。

今も多くの方に読まれ、喜劇を愛する人たちのバイブルにもなっている「日本の喜劇人」(新潮社)の著者で、クレイジーキャッツの功績をリアルタイムで知らない人たちにも広めてくれた小林信彦さんが、第7章「クレージー王朝の治世」の中で、「常勝のクレージー映画が初めてコケたのは"メキシコ大作戦"であった。メキシコ・ロケまでして、はずれたのだから、問題であった」と解説しています。この小林さんの見解がその後、いろいろなところで引用されています。確かに、「クレージー黄金作戦」に比べ配給収入は3割強少なくなっており、メキシコロケの費用を考えると期待値が高いだけに残念な結果だったかもしれませんが、映画がテレビに押されてきている中で、それでも年間ベストテンの4位に入っていることは評価すべきだと思います。黄金作戦のラスベガス大通りでのダンスシーンのような強烈に印象に残るシーンがないのが残念ですが、植木さん、ハナさん、谷さんが、それぞれの事情でメキシコへ行き、"オルメカの秘宝"を巡って珍道中を繰り広げるという、よく練られたストーリーになっています。
海外ではベトナム戦争、国内では大学紛争、高度成長の歪みとしての公害問題深刻化など、これまでの将来に対して前向きな明るい希望がもてる時代が終焉し、クレイジー映画に象徴される「明るく楽しい東宝映画」が次第に時代の雰囲気に合わなくなってきた結果、クレイジー映画も1971年の「日本一のショック男」(監督坪島孝)で終了。加山雄三さんの若大将シリーズも1971年、森繁久弥さんの社長シリーズも1970年で終了しています。
小林信彦さんは、2021年に「決定版日本の喜劇人」(新潮社)を刊行、日本の代表的な喜劇人を解説していますが、植木等さんについては、表紙の写真にも採用、あとがきの中で「会いたかった人」と述べ、平成に入ってからの活躍にも触れ、変わらぬ熱い思いを語っておられます。
2025年はクレイジーキャッツ結成70周年2026年は植木等さんの生誕100年という記念イヤーが続くので、クレイジーキャッツがいろいろな形で取り上げられ、またクレイジー映画をスクリーンの大画面で見る機会がくることを期待したいと思います。

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