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辻邦生作品レビュー/短編小説

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辻邦生さんの小説作品のうち、短編のレビューをアップしていきます
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#読書

『影』モータリゼーション直前の日本社会を見つめたミステリー

発表年/1962年 『影』は、大学卒業後、しばらく勤めていた自動車会社の宣伝部で見聞きした戦後社会の混乱を反映したもの、と、辻邦生さんは本作を収録した短編集『シャルトル幻想』の「あとがき」でおっしゃっています。 舞台はそうした自動車会社の車両を製造する一工場。日本のモータリゼーションが始まったのが東京オリンピックが開催された1964年だということを考えると、その直前、名神高速道路開通前にこの作品を発表したことは、当時としてはかなり勇気のいったことではなかったか、と、僕などはお

noterさんにぜひお贈りしたい二つの言葉   『ある生涯の七つの場所2』100の短編が 織り成す人生絵巻/夏の海の色 第三回

連作短編『ある生涯の七つの場所2/夏の海の色』第三回。これで『夏の海の色』は完結です。 上記は「黄いろい場所からの挿話」のラストで、アメリカへ留学する恋人エマニュエルとの別れを決めていた「私」が、考えを翻す場面です。 それは、やはり、いつかくるはずの、より完成された形までの、準備にすぎなかった。 お読みくださるみなさんにお贈りしたいのがまずこの言葉です。今自分がやっていることは、いつか手に入れるであろう成功や幸福の準備にすぎないのだ、そんなふうに考えてはいないでしょうか?

『ある生涯の七つの場所』100の短編が織り成す人生絵巻/霧の聖マリ第一回 黄いろい場所、赤い場所からの挿話1〜3

辻邦生さんの作品には連作短編というものがあり、中でも一番壮大なのが『ある生涯の七つの場所』だということをこちらでお話しました。 全作を再読したのちにご紹介するのが本当は一番なのだけれど、それだと読了に『春の戴冠』よりも長くかかってしまうので、少しずつご紹介していきたいとおもいます。 その前にまず概要をお話いたします。 1.『ある生涯の七つの場所』その全体像についてこの作品についてご理解いただくには、何よりあとがきにある辻邦生さんご自身の説明をお読みいただくのが間違いないと

『城』小説家 辻邦生の始まり。運命に左右されるリゾート地の夏。

発表年/1961年 短編『城』は、辻邦生作品の中で初めて商業出版誌に掲載されたものです。辻邦生さんはこの小説で「小説を書くというエクスタシーを全身で味わった」とおっしゃっています。そのことは、このあとに書いた『ある晩年』についてのあとがきでも語っておられます。 さらに雑誌『近代文学』を創刊された埴谷雄高氏から、いいものが書けたら「近代文学」に載せてあげる、と言われたことで、辻邦生さんは最初から、 ということになります。何と羨ましい出発でしょうか・・・ 1.フランス滞在か

『洪水の終り』事件は季節の移ろいとともに。今こそ読んでほしい戦争の悲劇

発表年/1967年 辻邦生さんの作品にはエピグラフ(作品の巻頭に置かれる引用文や題辞)の置かれているものが少なくありません。例えば先の『献身』では次の句が置かれています。 『洪水の終り』のエピグラフは『旧約聖書』創世紀のこの部分、 有名な「ノアの箱舟」の一節です。神は箱舟から出たノアと、二度とすべてのものを滅ぼす洪水を起こすことはないという契約を結びます。冒頭に置かれたこのエピグラフはどんな意味を持つのでしょうか? 1.登場人物とストーリーのあらまし 『洪水の終り』の

『ある晩年』《生》と《美》の哲学的思考、その物語としての表出

発表年/1962年 短編小説『ある晩年』は、『城』『西欧の空の下』『影』などとともにごく初期にパリで書かれた作品です。『西欧の空の下』はややエッセイ風な掌編で、機会があれば他の短い作品と合わせてご紹介しようとおもいます。 さて、『ある晩年』ですが、フランスのT**市で弁護士として名をあげたエリク・ファン・スターデンの最後の半年ほどを描いた小説です。先にご紹介した『献身』と同じように、こちらも単行本としては初期の短編集『シャルトル幻想』にまとめられていますが、そのあとがきで辻

『献身』死の床にある詩人ランボオと、それを看取る妹、モノクロームの映画のように

発表年/1966年 下の記事で辻邦生さんの作品の特徴をあげてみましたが、 もうひとつ、次のことがありました。 歴史もの、恋愛もの、あるひとりの人生を描くもの、思想的なイメージもの。中には怪談めいたものから「世にも不思議な物語」のような掌編まで。いったい、その着想はどこから得たのだろう・・・というより、なぜそれを書こうとおもわれたのだろうか、ということが気になってしまいます。 この『献身』という短編も、そんな作品のひとつです。 1.あらゆる世界への絶望と怒り。ランボオとは

『風越峠にて』自分の宿命と対峙すること

発表年/1975年 先日、日経新聞の「文学周遊」で、辻邦生さんの『風越峠にて』が取り上げられていました。 もともとこの短編をこちらでもご紹介するつもりだったので、それに合わせたわけではありませんが、良いタイミングだったとおもいます。 『風越峠にて』は日本書紀巻第三十、持統天皇の項で描かれる大津皇子謀反の事件を下敷に書かれた短編小説です。戦中を山岳地方の旧制高校で過ごした「私」が、同窓の友人、谷村明が戦争末期から終戦直後にかけて遭遇した出来事を本人から聞かされるという形で話

『円形劇場から』一箇所に定住せず「私」が彷徨い続けた理由とは?人生の意味を問う美しい物語

発表年/1970年 辻邦生さんは機会あるごとにご自分の作品について書いたり語られたりしているので、作品をご紹介しようとおもうとついそういったものに頼ってしまいそうになるのですが、ここはできる限り自分の感想としてお伝えしようとおもいます。 レビューを書くために再読して思い出しました、短編小説の中では、僕はこの『円形劇場から』という作品が一番好きだったのです。 例によって「私」のモノローグで物語は進んでいきます。「私」は家を離れ、大学で聴講生となるために都会に出てきます。都会

『北の岬』ある至高の愛の軌跡

発表年/1966年 日本人の「私」が2年の留学を終えてパリからの帰途、船内で日本へ向かうスイス国籍の修道女、マリ・テレーズと運命的な邂逅をするところからこの話は始まります。 マリ・テレーズの信仰する宗派は言葉の上での教義ではなく、自ら弱者のもとへ赴いてその人たちの日常へ入り込み、暮らしを共にすることで信仰の姿勢を明らかにするといった厳しいものでした。マリ・テレーズが日本へ行くのも、日本でのその仕事のためなのです。信仰以外のことではまだ子どもと言ってもいいようなあどけない姿を見

《ただ一度の生》に目覚め、きっぱりと《若さ》から決別することは・・・

発表年/1968年 この作品は、辻邦生がフランスで想を得て書いた一連の短編小説のひとつです。南イタリアのブリンディジからイオニア海を渡り、ギリシャのアテネへと旅をしながら、主人公である「私」が《生》への啓示を受ける話です。 特別これといったストーリーがあるわけではなくまた、旅の途中でクリスチアーヌとモニクというフランス人の若い姉妹と知り合いになりますが、彼女たちは単に若さの象徴として登場しているのみで、話の中で特に大きな行動を起こすわけでもありません。 最初に、《死》をイ