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キャンプ場で考える戦争のこと #01 終戦の日に、荒れ狂う台風が洗い出してくれたもの

「戦後民主主義教育の実践」の場として、余島キャンプ場はスタートした。

おそらくまだ戦争の色が強く残った1949年、余島キャンプ場はプレキャンプを実施する。

そして翌年の1950年キャンプ場開設から現在までずっと、キャンプが続いている。

日本では、YMCAが1920年に、現在のサマーキャンプの原型となるキャンプをスタートしたとされている。

「青少年の生活そのものは、教育的に指導することができれば、教育上これほど望ましいことはない。夏季における長期キャンプは、これがためにもっとも良い機会である。」(酒井哲雄氏 日本YMCA100年基調講演より)

上記の言葉は、Dimocの書物を背景に、東京YMCA野尻学荘開設の時に使われた言葉の引用である。

1929年にアメリカで出版された Camping and Character は、世界で初めて、キャンプを体系的に捉えて、その効果を検証したものと言われている。

しかしYMCAも第二次世界大戦に突入し、キャンプは閉鎖される。

そして終戦を経て、「戦後民主主義教育の実践の場」として再びキャンプの歴史がスタートすることになる。

この時、

北米YMCA(アメリカ、カナダYMCAを包括して)などよりの物心両面の援助を、指導者の応援を得て、

多くの組織キャンプ場が復活した。

(その時の恩恵にまだ頼っていて、自立して運営を成功させている教育キャンプ場は、おそらく日本にはない。)

戦後間もない1953年に、余島では「肢体不自由児のためのキャンプ」が行われており、「人間としての尊厳」を追い求める明確な志をひしひしと感じる。

8月15日。

終戦の日の今日、いつもなら「終戦の日の集い」をする日であるけれど、
台風の影響によりキャンプ場内にはスタッフしか滞在していない。

台風対策と見回り(台風通過中にできることは限られている)をしていた。

今回の台風はなかなかすごい勢いで余島にも直撃した。

荒れ狂う海は、脅威だった。


https://youtu.be/lNhSs7bIfpc


潮が引いた頃に見回りに出ると、南の浜に現れた鉄骨。

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台風にたくさんの砂が洗われ、
地中にあったものが出てきたのだ。

本当かどうかわからないが、余島にも戦時中は軍事的な施設があって、これは格納庫から海へ出艇するためのレールだと聞いたことがある。

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他にもなにやら鉄の塊が散財している。

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余島には戦中に建てられたと言われている日本家屋があり、現在も客室として利用している。

その横には防空壕がある。

この島で働いていると、戦争には自ずと向き合うようになる。

アーネスト・ゴードンはイギリス兵で、第二次世界大戦で日本軍の捕虜になった。

「泰緬鉄道」またの名を「死の鉄道」という鉄道がある。
日本軍によって作られた、タイとミャンマーをつなぐ線路であるが、それには多くの捕虜が動員された。

文字通り、多くの捕虜がそこで命を落とした。

私は第二次世界大戦について調べていくうちに、この伝記に出会った。

戦時中の残忍な日本軍の行い、「死の家」に次々と運ばれてくる「生きる希望」を失った「まだ生きている屍」たちの最期、それでもその絶望的な状況の中で、勇敢な「人間らしい行い」が人々に生きる希望を与え、まさに復活してく様子など、アーネスト・ゴードンの世界に複雑な気持ちでのめり込んでいった。

アーネスト・ゴードンの伝記を基にした映画がある。

※もちろん日本人キャストも出ているが、日本劇場未公開作品


そこは死人の臭いが漂う所。兵士らは兵士としての尊厳を奪われ、日本語、武士道を強要され、逆らったり、脱走を試みれば容赦なく殺され、人間以下の扱いをされる。病院はあるが、それは名ばかりで、あとは死をまつばかり。そんな中、泰緬鉄道の建設をナガトモが宣言。それに逆らったマクリーンはナガトモに射殺される。そして泰緬鉄道の建設が始まり、過酷な環境下で、アーネストが小さな学校を開き、絶望する人たちに文学、哲学、芸術、そして聖書を教え、救おうとする。ダスティも、聖書に基づいて、たとえどんな迫害を受けても、敵を愛せよと言う。過酷な労働は変わらないが、そこから少し変わり、1943年10月16日、死の鉄道、屍の上に建てたといわれる泰緬鉄道が開通。捕虜の半分が、別の収容所に移動となり、アーネストらは、また仲間を失う。そして連合国軍は収容所を爆撃。無線機だけが頼りになる。希望を失いかけてた中、1945年8月15日、アーネストらは解放される。-Wikipediaより

日本軍の捕虜の扱いは、とても酷いものだった。

第二次世界大戦はそれでも、第一世界大戦の反省の上に起こったものだった。


読み進めるとふと、聞き覚えのあるストーリーに出会った。

カウンシルファイヤーでよく語られていたストーリーだ。

「そしてある時、50人の兵隊が作業を終えて、スコップを一人ずつ置いて行きました。日本の兵隊がそのスコップを数えましたところ、49本しかありません。カンカンになった日本兵は、『誰が無くしたか、前に出ろ』と。収容所のイギリス兵は、前に出たら、たちどころにその場で殺されることを皆知っていました。皆は、心の中で『誰か無くしたものが出てくれればいい』と思いながら、青くなって立っていました。
 しかし、誰も出てきません。だんだん怒った日本兵は、最後に言いました。『誰も責任を取らないのならば、連帯責任だ。お前たちを皆、処刑する』
 その時、一人の男が、『すみません。私が無くしました』と申し出ました。『何故今まで言わなかったのか』と言ったかと思うと、その銃を逆さに構えて、台座で彼の頭をぶん殴りました。勿論、彼はその場で即死しました。
 ところが、後で日本兵がもう一度数えたら、49本だと思ったのが50本ありました。日本兵が数え間違えたのであります。
 その話が収容所の中に広がると、『彼は自分が無くしたのではない。俺たちの命を救うために、自分が申し出た。』皆がこのようなことを言い始めたとき、今まで人の足を引っ張って、なるべく楽をして一日でも他の一人も長く生きようという兵隊たちの中に、『そうじゃない。人間の社会というものは、お互いが自分の利益を中心に、足を引っ張りあってはいけないのだ。そのような社会のなかで人のことも考える人がいるときに、初めての人間の社会が生まれるのだ。動物としての人間の集まりのような捕虜収容所の中で、人間としての社会が生まれるのだ』ということが、だんだんわかってきた時に、その収容所の中は、ほのぼのとした温かさに包まれてきたというのであります。」(心に残った今井先生の話、時を超えて 今井鎮雄のことば)

このイギリス兵の話を、私は直接カウンシルファイヤーで聞いたことがあったが、その時はアーネスト・ゴードンの伝記には触れていなかった。

今井鎮雄さんが亡くなった後に編纂された思い出集の中にこのカウンシルファイヤーでのストーリーを知り、なるほど余島開設の秘密はここにあったのかと、「戦後民主主義教育」、「人間の尊厳」、「戦争(第二次世界大戦)」という言葉がすべて繋がった。

最近余島の将来について、よく考える。

「余島は今後、どのように存在するべきなのか?」

前述したように、戦禍から生まれたこのキャンプ場は、まだまだ大人になっていない。


あちこち老朽化し、体質も古く、

「変わらなければならないけれど、変われない」

その真っ只中にいる。


アメリカやカナダと違い、「青少年が成長する上で」キャンプは欠かせないものになっているわけでもなく、

「民主的なコミュニティで暮らす」体験にお金や時間をかける人も少ないこの国で、キャンプ場を運営していくのは本当に難しい。


いつしか僕は、反対の問いをするようになった。

「ではいつ、私たちはこのキャンプ場を手放して、その使命を終えるのか」

その答えに出会ったのは、ここ最近である。


「もし人々が戦争や紛争といった、『争い』の恐怖から解放された時、私たちはキャンプ場としての役目を終えるのではないか」


戦争から生きて帰ってきた先人たちは何を思って、この島にキャンプ地を開設したのか。

そして死んでいった先人たちは何を思って、戦地に赴いたのか。

戦争を体験した世代の方々は、決して多くを語らなかった。
それは語れなかったのかもしれない。

圧倒的なその体験を、おそらく私たちたちは何世代にも渡って消化し、自分たちのものにしなければならないだろう。


人間だから、争うことは仕方のないことかもしれない。

しかし武力によることなく、対話によって解決へと向かう道を私たちが選択することができるのなら、もうキャンプはいらないのではないかと思う。

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荒れ狂う台風の海から一変して、

平穏な砂浜に打ち上げられた鉄の塊を眺めながら、そんなことを考えていた。


「人間の尊厳とは何かを考えなさい。」


その先人の問いは、いつも胸の中でこだましている。

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