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私が入管を信じられない理由 その2

7 難民不認定理由が「これを立証する具体的な証拠がなく」だけだった

8 在留特別許可に関する法務大臣の判断で作るべき「裁決書」が作られていなかった

法務大臣が在留特別許可をするかどうかの「裁決」(入管法49条3項)をするにあたり、入管法施行規則43条は,「別記第61号様式による裁決書によって行うものとする。」と規定し,裁決書の作成を明確に義務付けていました。
ですが、裁判の証拠に出ていなかったことから、提出を求めたところ、なんと「作っていない。」との回答が。私が担当した事件だけではなく、友人たちが同じ時期に気づいて提出を求めたのですが、どの事件でも作っていなかったことが明らかになりました。
そんなバカな。口頭で良いということだとすると、法務大臣がトイレで「彼は在留特別許可認めない。」とつぶやいただけでも処分したことになってしまいます。
いくら何でも重大な手続違背で、それだけで処分を取り消すべきと最高裁まで争いましたが、ダメでした(ただし、上田豊三裁判長の反対意見が付されています)。同じ争点が問題となった事件で公刊されているのは 平成18年10月5日判決(判例タイムズ1227号140頁等)です。結論はやはり適法でしたが、泉徳治裁判長の反対意見が付されています。


9 難民の出身国に行って迫害の危険を増大させる禁じ手の調査(2004年6月〜7月)


「法務省入国管理局の職員が、訴訟準備等のために、難民申請をしている申立人ら(クルド人)の国籍国であるトルコ共和国を訪問し、政府関係機関に対して、申立人らの氏名等及び難民であると主張していることを告知し、親族を訪ねるなど現地調査を行ったことについて、申立人らの個人特定情報等を提供されない権利を侵害し、生命等の安全を侵害するおそれを生じさせたとして法務大臣に対して警告した事案。」

これ、少しでも想像力があれば絶対にやってはいけない禁じ手です。日本弁護士連合会から警告がされています。

10 簀巻き送還(2004年11月)


2004年11月4日、ベトナム人女性が簀巻きにされて強制送還されました。それを再現したアクションは以下のブログで紹介されています。

11 ビルマ難民 高熱を出している乳児と分離して母親収容(2004年12月)

 2000年過ぎたころからでしょうか、入管は子どもの収容はいくらなんでもまずいと思ったのか、収容されなくなりましたが、両親を収容して子どもを施設に送るということをし始めました。

 2004年12月1日、ビルマ難民の3歳と1歳の子どもが高熱を出して寝ているところ、添い寝していた母親を入管が収容していきました(父親は半月前に収容)。
 両親に対しては帰国の意思表明をすれば子どもに会わせるなどとプレッシャーを掛けていたとのこと。
 子ども達は乳児院に保護されましたが、3歳の長女は「パパどこ、ママどこ」と情緒不安定であり、母乳を飲んで来た1歳の長男は哺乳瓶での授乳をなかなか受け付けないということでした。

2014年12月16日 東京新聞記事より

12 両親収容→子どもは児相 すぐに一家全員在留特別許可(2007年)


 2007年にはフィリピン人一家の母親と内縁の夫を収容し、4人の子ども達は児童相談所等に預けられました。
 ですが、両親は収容されてから約2か月後に仮放免許可がされ、さらにその3か月半後に、一家全員に在留特別許可が認められました。
 全く必要性のない収容で、親子を分離していたのでした。日弁連からは警告が出されています。

13 それでも続く親子分離収容


 上記の日弁連警告が効いたのか、両親を収容して子どもを児相へ、という運用は鳴りを潜めていましたが、2019年5月の共同通信配信記事では、2017年には28人、前年比7倍となっています。

 運用任せにすると、こういうことが起きるのです。

 著作権の関係で載せられませんが、2019年5月13日の四国新聞などには共同通信配信記事で、「死んだ方がまし」「引き裂かれたクルド人一家」という見出しの記事も載っています。

まだまだ続きます。

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