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【閲覧注意】1996年〜2001年までのタリバンによる迫害

2021年8月15日、タリバンがアフガニスタンの首都カブールを掌握しました。

私は仲間達と一緒に2001年から2013年ころまで、日本に逃れてきたアフガニスタン難民の代理人を複数担当し、その過程で、タリバンが少数民族ハザラ人や女性に対して、どのような仕打ちをしてきたか、信頼できる資料に基づき、裁判などで主張・立証してきました。その活動の一部は以下の書籍で紹介していただいています。


それから15年あまり。事件対応に必要がなくなったので、アフガン情勢について追いかけていたわけではなく、今のタリバンが当時とは違っているのかどうか詳しくは知りません。

ただ、タリバンによる市民への人権侵害は、イスラム教スンニ派の教えを厳格に守ることに起因していますので、その根っこが変わっていなければ、残念ながら同じようなことが起きるのではないかと暗澹たる気持ちです。

タリバンが政権を握っていたのは20年も前の話なので、ご存じない方も多いでしょう。ここでは、裁判で信頼できる資料により主張していたタリバンによる人権侵害についての主張を掲載します。文中(甲*)とあるのは裁判の証拠番号の引用です。

これをご覧頂ければ、アフガンの人たちが逃げるために空港に殺到している気持ちが良く理解できるのではないかと思います。私も、恐怖を覚えています。かなり残酷な記述がありますので、閲覧注意です。

フガニスタンの状況

(1)アフガニスタンの歴史

 多民族国家であるアフガニスタンは、1919年に王制の下でイギリスからの独立を達成した。1973年7月に共和制に移行後、1978年の政変により共産主義の人民民主党(PDPA)が成立した。1979年12月のソ連軍侵攻後、ソ連の支援下で共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義を中心とするムジャヒディーン(「イスラム聖戦士達」の意)がソ連及び政権に対する抵抗を開始し、アフガニスタン国内は、現在まで続く内戦状態となる。1986年5月にカルマルからナジブラに政権が引き継がれたが、1989年2月にソ連軍が撤退すると、1992年4月にはナジブラ政権は崩壊し、ムジャヒディーン各派による連立政権が成立した(以上、甲1「一般事情 7 略史」)。

(2)内戦の激化とタリバンによる国土の掌握

 その後、ムジャヒディーン各派同士での主導権争いにより内戦が激化した。

 その中から、1994年末ころ、イスラム原理主義の新興勢力であるタリバンが台頭してきた。タリバンは、急速に支配地域を拡大し、1996年9月には、首都カブールを占拠した。

 こうしたタリバンの進攻に対し、ムジャヒディーン各派は反タリバン勢力として統一戦線(北部同盟)を結成し、両者の間での激しい内戦が現在まで継続している。

 タリバンは、1998年に入り、北部の要衝地であるマザリシャリフなどを支配下におさめ、2001年4月初め現在では、国土の9割を掌握していたといわれている(以上、甲1「一般事情 7 略史」「政治体制・内政 5」)。

 一方、タリバン崩壊後、暫定行政機構の中核をなす北部同盟は、タジク人を主体とするラバニ=マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心とする。

(3)タリバンによるアフガニスタン支配の状況

ア  タリバンとは

 タリバンは、ムッラー・ムハマンド・オマル師を最高指導者とする集団であり、パキスタンの「マドラサ」と呼ばれる宗教学校の教師や学生を中心として結成されたといわれる。

 タリバンは、イスラム原理主義者の中でももっとも厳格にシャリアと呼ばれるイスラム法を解釈し執行する急進主義者として知られる。タリバンは、他のイスラム社会や西欧社会、国連の援助機関を含む国際社会との一切の妥協を拒否し、タリバンの政策やイスラム法の解釈に対する議論や批判を許さない。タリバンに反対すると疑われたアフガニスタン人については、国連の職員であっても、逮捕され、起訴のないまま身柄を拘束されている。アムネスティ・インターナショナルの調査によれば、タリバンに反対するとの疑いを受けた人の多くは、拷問や残虐な取り扱いを受けている(甲2訳文3頁、同6頁、同7頁、同8頁、甲3訳文2頁)。例えば、Charasyabが1995年初頭に短期間タリバーンの支配下にあったときにタリバーンに逮捕された6人は、Kandaharに連行され、8か月の間悲惨な衛生状態の金属製のコンテナに閉じこめられたと伝えられている(甲2訳文8頁)。

 1999年10月及び2000年12月の2回にわたり、タリバンに経済制裁を課す国際連合安全保障理事会決議がなされている(甲1「外交・国防 1 外交一般」)。

イ  タリバン体制下における人権侵害(一般)

(ア) 司法システムの欠如(甲2訳文2頁、同3頁、同7頁、甲3訳文1頁、同8頁、同10頁、同11頁)

 タリバン体制下で、アフガニスタンには、憲法、法の支配、独立した司法組織は存在しない。タリバンは、世俗法の概念や、拘束力を有する国際的な人権規範を認めず、また、シャリアに反する法や決定は無効とされる。

 アフガニスタンの大部分の地域では、司法システムは存在せず、司法手続は、各地の指揮官や当局者の判断により、恣意的に執行されている。

 タリバンは、彼らの解釈によるイスラム法制度に基づいた場当たり的で原始的な司法制度を確立し、その支配地域を厳しく統治している。タリバンの法廷は、迅速な略式裁判によって、極端なイスラム法解釈を適用した刑罰を言い渡している。

(イ) 残虐な刑罰

 タリバンは、公開の死刑、鞭打ち刑、四肢切断刑等の残虐な刑罰を実施している(甲2、甲3、甲4)。

(a) 例えば、UNHCR作成のアフガニスタンからの難民及び庇護を求める者に対する背景資料更新版では、

●「タリバーンの権力掌握以来多くの人が、処刑され、手足を切断され、いくつかの例では石投げにより殺された。」(甲2訳文6頁ないし7頁)

●「劇的な公開処刑及び四肢切断は、アフガニスタンにおいてますます報告されるようになっている。」(同7頁)

●「1997年10月、タリバーンの軍は、4人のかつてタリバーンと戦った者の死体を、地上から約10フィートの高さの幹からつるし、カブールの2つの交差点に展示した(国務省、1998年1月)。」(同7頁)

●「人々はヘラトのサッカー競技場に集められ、そこで有罪判決を受けた人間が30分ほど首を絞められて殺された(アムネスティ・インターナショナル、1996年11月)」(同7頁)

●「1996年7月、不貞によりタリバーン法廷で有罪判決を受けたカップルが、Kandaharの公開の場所で投石により処刑された」(同7頁)

●「1998年2月及び3月には、全部で5人の男性が、同性愛により有罪とされ、壁で押しつぶす方法での死刑を宣告された。」(同10頁。甲3訳文5頁及び8頁でも同じ例が報告されている。)

●「1998年2月27日、カブール・スポーツ競技場において、一人の女性が3万人ほどの観客の前で、伝えられるところでは不貞行為により100回の鞭打ちを受けた」(同10頁。甲3訳文5頁、8頁、25頁、甲4・4頁でも同じ例が報告されている。)

という例が報告されている。

(b) また、1999年版アムネスティ年次報告書(甲4)でも、上記のような例の他、

●公衆保健省の医師たちが施行する公開の四肢切断刑も、14件報告されている(同4頁)。

●犠牲者の家族が死刑執行人となる場合もある(同4頁)。

との報告がされている。

(ウ) 拷問及びその他の残虐、非人道的又は品位を貶める取扱

(a) また、毎週金曜日に、カブールの競技場において、何千人もの人々が、公開処刑及び四肢切断刑を目撃するように圧力をかけられているという報告もある(甲2訳文9頁。甲4・4頁にも同旨の報告あり。)。

(b) さらに、タリバーン支配下にあるアフガニスタン北部のある地域では、10歳及び12歳の子どもが、ライフルの銃端で頭を殴られ、その後射殺された。彼らの母親も攻撃者に対し嘆願したが、同様の方法で殺された(甲2訳文9頁)。

(エ) 社会的活動の分野における抑圧(甲3訳文8頁ないし9頁、同12頁ないし13頁、同18頁ないし19頁、同25頁、同27頁、同31頁、甲4・1頁)

(a) タリバンは、テレビ放送、スポーツなどの娯楽活動を禁止している。

(b) 女性の就労と教育ばかりか、近親者の男性の付き添いなく女性が外出することすら禁止している。外出が許される場合であっても、女性はブルカと呼ばれる、頭から足元まですっぽりと覆われるテントのような服で身を隠さねばならない。

(c) 男性は、長い髭をはやさなければならない。タリバンの治安部隊は、彼らが「不適当な服装」と考える服装を理由に女性を脅し殴るなどの暴行を加えていた。また、男性に対しても、「不適当な服装」や正しくない髭の長さを理由として同様に脅され、殴られるなどの扱いを受けている。

(d) こうした社会的活動を統括する布告は、美徳施行悪徳撲滅省(DPVPP)と訳される機関がその施行を管轄しており、同省の監視部隊が、その違反者を鞭ち打つ、拘束するなどの即決刑罰を課している。

ウ  タリバンによるハザラ人、イスラム教シーア派に対する人権侵害

 タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体としており、少数民族である非パシュトゥーンのハザラ人、タジク人、ウズベク人などを迫害している。

 とりわけ、ハザラ人については、パシュトゥーン人の多くがイスラム教スンニ派であるのに対し、ハザラ人の多くがイスラム教シーア派であることから(甲3訳文19頁)、歴史的にスンニ派のイスラム教徒から迫害・差別を受けてきていた(甲3訳文24頁)。

 そして、近時の例でも、次のとおり、タリバンによる組織的な殺害を含む迫害の対象となっている。

(ア) Abdul Ali Mazariの処刑

 スンニ派のタリバンは、シーア派のハザラ人を「脅威」と見なしており、シーア派指導者の一人Abdul Ali Mazariは1996年10月にタリバンによって処刑されている(甲2訳文13頁)。

(イ) 1995年の強制移住

 1995年9月初旬、Nimruz地方の掌握後、タリバン軍部はシーア派の住民に対し、3日以内に自宅を退去するよう命令した。数人の住民は、Hazarajatに強制移住させられる際、激しく殴打されたと報道されている。他の人々は、強迫され、報道によればイランに逃れたという(甲2訳文13頁)。

(ウ) 1997年カブールでの民族的理由による拘束

 1997年の数か月間、数千人がカブールで収監されていたこともある。これらの人々の中には、その年の7月、自宅で捕まり、市内あるいはあちこちの刑務所に連れて行かれたタジク人やハザラ人の男性2000人も含まれていた。彼らの大半は、出身民族が理由で拘禁されたため、いわゆる「良心の囚人」であったと考えられている(甲5・2頁)。

(エ) 1997年ケゼラバドでの虐殺

 アムネスティ・インターナショナルは、タリバンが1997年にマザリシャリフ近くのケゼラバドで子どもを含む70人のハザラ系住民を虐殺したと伝えている(甲3訳文15頁、甲5・3頁)。

 このときの被害者全員がハザラ人であり、その中には8歳くらいの少年もいて、殺された後に首を切られたとのことである。その他、銃剣で目をくりぬかれた人々もいた。12歳くらいの少年2人が警備兵に縛られ、腕と手を石で潰されたと報告されている(甲5・3頁)。

(オ) 1998年に帰還したハザラ人の投獄

 1980年代に200万人ほどが逃れたとされるイラン(同じ、シーア派が多数を占める)から、1998年にハザラ人が帰還したときは、帰還と同時に拘禁され、Quandaharに移送され、投獄された(甲2訳文13頁)。

(カ) 1998年のマザリシャリフ侵攻

(a) タリバンが1998年8月8日にマザリシャリフを攻略したときには、何千人ものハザラ人の一般市民が、タリバンにより計画的かつ組織的に虐殺されている。その時の死亡者は、5000人とも8000人とも言われ、一部の犠牲者は、喉を切り裂かれ、又は銃剣で突き殺された。タリバンは、路上で動く者を見ると、自分の家の窓やドアから覗いていただけかもしれない人も含め、誰であっても発砲した(甲2訳文6頁、甲3訳文15頁、甲4・3頁、甲5・3頁、甲6・1頁)。

(b) マザリシャリフ占領後、タリバンは、ハザラ人の家を1軒ずつ家捜しし、老人男性や子どもを殺害し、若い男性を連れ去り、また、若い女性をタリバンの兵士と結婚させるために連れ去った。この時拘束されたハザラ人は数百人に上るが、多くは行方不明となっており、タリバンにより殺害されたものと考えられる(甲2訳文5頁、同7頁。甲3訳文7頁、甲5・3頁)。

 さらに、ハイラタン市の近く野村で、村人たちの目の前で捕虜の人々70人が殺された。これは、前記のとおりタリバンによって殺害されたシーア派指導者Abdul Ali Mazari(9頁参照)の墓地で、イスラム式の動物たちの殺害儀式の方法で、喉を掻き切られて行われたとのことである(甲4・2頁、甲6・1頁)。

(c) そして、生き延びた者についても、何千人もが軍のトラックに載せられ、市の刑務所に拘禁された。その大多数が非パシュトゥーン人であり、ハザラ人が多数を占めていた(甲2訳文8頁、甲4・2頁、甲5・3頁ないし4頁)。拘束された人たちは拘禁後、民族的な出自を問われ、ハザラ人以外は数日のうちに釈放された(甲6・2頁)。そして、数は不明であるがヘラート及びQuandaharの刑務所に移送された。多数の囚人が大きなコンテナ・トラックで運ばれ、窒息死したと伝えられている(甲2訳文8頁)。また、別の報告では、夜中にマザリシャリフやシェバルガン近辺の野原に連れて行かれ、そこで処刑されたとも言われている(甲5・4頁、甲6・2頁)。

(d) こうした「マザリシャリフの虐殺」に際して、タリバンの指導者オマル師は、シーア派ムスリムは不信仰者であるから、彼らを殺害しても罪にはならないとの布告を出したとされている(甲2訳文13頁)。

(e) 生き残ったシーア派に対しては、「『犬のようにその場で射殺されたくなければ』改宗して1日5回礼拝に出よ」という呼びかけがなされた。このときシーア派ハザラ人に与えられた選択肢は、改宗するか、他国に逃れるか、殺されるかということであった(甲5・2頁)。

(キ) 1998年のバーミヤンの虐殺

 1998年9月には、バーミヤンにおいて、ハザラ人の一般市民200人とも、500人とも言われる民間人が虐殺されている(甲2訳文7頁、甲3訳文4頁、同14頁)。

(ク) イスラム統一党員等への迫害

 1998年には、北部同盟の一派であるHizb-i-Wahdat党(イスラム統一党)の支持者ないし党員と疑われた700人以上のハザラ人が投獄されたと報道されている(甲2訳文13頁)。

(ケ) 1999年のバーミヤン(ヤカオラン)での虐殺

 1999年5月9日にタリバンはバーミヤンを再占領した。ほとんどの住民は占領前に町を離れ、山中に逃げ込んだ。国連によれば、周辺の山々への避難の後、寒さと飢えによって361人の児童及び138人の成人が死亡したと伝えている。バーミヤンに残った住民は組織的な殺害の標的となった。タリバンが入市後に略式処刑を行ったとする複数の報告もある。タリバンによるバーミヤン占領後に、数百人単位の男性、およびかなりの数の女性や子どもが連れ去られたと推測されている(甲3訳文13頁、甲5・4頁)。

 さらに、同月14日には、タリバンはバーミヤン地方第2の都市であるヤカオランを奪取した。その際にも多くのハザラ民族の一般市民が、進駐してきたタリバン警備隊の組織的殺害の標的にされたと報告されている。さらに何百人もの男性のみならず、ときには女性や子どもまでがタリバン勢力によって家族から引き離され、現在でも行方不明のままである(甲3訳文3頁、同13頁、甲7)。

 国連は、この攻撃の際に、バーミヤン地方の15パーセントの家屋が組織的に破壊され、21パーセントが深刻な被害を被ったと推定している。国連によると、当該地方の全ての家畜の66パーセントが戦闘によって殺害された。家財、商業用車両、および店舗が売却され、略奪され、あるいは破壊された。戦闘及び破壊の結果として、春季の農業活動は不可能となり、その年後半の深刻な食糧不足の原因となった(甲3訳文14頁。同旨甲5・4頁)。

(コ) 2000年のヤカオランでの虐殺(甲7)

 2000年12月にタリバン勢力が再びヤカオラン地域を制圧した後、多数のアフガニスタン一般市民を即決処刑したことにアムネスティインターナショナルは非難の声を上げた。被害者はすべて男性で、13歳の少年も含め100人から300人にのぼると推測される。ほとんどはナヤク付近の村で殺害されたと伝えられ、同時に多数が逮捕された。

 タリバンによる処刑は、2000年12月、反タリバン勢力イスラム統一党との激しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。

 反タリバンと見られる13歳から70歳までのすべての男性を殺害するようタリバン司令官が命じたと伝えられている。

 タリバンは幾度となくハザラ民族を大量虐殺してきただけではなく、家屋を焼き払い、成人男性に限らず少年までも逮捕し、土地や家財を収奪してきた。

(サ) 2001年1月のヤカオランにおける虐殺(甲8)

 さらに、2001年1月7日にも、タリバンはヤカオラン地域において、数日のうちにハザラ系住民を逮捕、処刑し始めた。

 タリバン兵士は、「モスクなら神聖な場所だからタリバンは攻撃しないだろう」と考えて避難していた女性、子ども、年輩の男性など、併せて73人がいたモスクにロケット弾を撃ち込み、生き残ったのはわずか2人の子どもだけだった。

引用証拠目録

甲1 外務省情報ファックスサービス アフガニスタン

甲2 Update to the Background Papers on Refugees and Asylum Seekers 第5章「人権の状況」についての翻訳 UNHCR作成

甲3 アメリカ国務省国別人権状況報告

甲4 1999年版アムネスティ年次報告書(翻訳)

甲5 「アフガニスタン:マイノリティの人権」 アムネスティ・インターナショナル

甲6 「アフガニスタン『マザーレ・シャリーフ』をタリバンが占領した後、何千人もの一般市民を殺害したこと」 アムネスティ・インターナショナル

甲7 2001年1月23日付アムネスティ・インターナショナル発表国際ニュース

甲8 2001年3月28日付アムネスティ・インターナショナル発表国際ニュース

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