【短編】立ち上る湯気と彼女

 家で摂る食事にしても、外食にしても、とりわけビュッフェともなると、彼女は苦しくなるまで食べ続ける。腹八分目で食事を終える主義の僕からすると、彼女のそれは理解の及ばぬ行為に映った。
 満腹の一歩手前で終えることが、食の満足感を最大限に得られるコツなのである。そもそも、食事は時間をかけたりお金をかけたりしてようやく摂るものなのに、結果苦しくなるなんて訳がわからないじゃないか。
 そんな僕の持論は、毎度「いっぱい食べた方が幸せに決まってるじゃん」と一蹴される。
 そのくせ彼女は食事を終えると、「苦しい」と言って助けを求めるように僕を見つめてくる。それに付き合わされる度、僕は彼女を愛らしくも小憎たらしく思うのだ。

 彼女が風邪をひいた。
 それは珍しいことで、いつも溌剌としている彼女の顔は熟れた桃のような色に染まっている。普段より無機質に感じる彼女の部屋の中、僕はカーペットに腰を下ろし、ベッドに横になる彼女を見やる。
 ぽつり、「何か温かいものを食べたい」と彼女の口から溢れる。それじゃあ近所のコンビニへ足を運ぼうと立ち上がる僕だったが、「何か作って」と小さな手が僕の袖を引っ張った。
 振り返ると、彼女は顔のパーツを中心に集めるようにくしゃっとさせて、反対の手で『お願い』のポーズをしていた。
 さすれば何か振る舞う他なく、「何が食べたいの?」とスマホを手に取る。 

 「野菜のあんかけ」

 いつだったか、過去に得意料理の話をしたことを思い出した。確かその時、僕は野菜のあんかけと返答したのだった。彼女はそんな何でもない会話を覚えていたのかと、懐かしくも我に返ったような気持ちになった。

 カーペットの傍らにスマホを置き、キッチンへ移動した。冷蔵庫を開け、中の在庫を確認する。人参、玉ねぎ、ピーマン、もやし。豚のバラ肉も残っていたので、使うことにした。あんの材料も、それらはまるで待っていたかのように全て揃えてあった。
 一つ大きな伸びをした後、早速料理に取り掛かる。料理をするのは久しぶりだし、何より彼女に振る舞うのが初めてなので少しだけ緊張する。
 まずは米を炊こう。これは無洗米だよな?洗わなくていいはずだ。炊飯器に米を入れて水を注ぎ、タイマーを早炊きにセットする。次に野菜を洗ってカットしたら、フライパンに油を引いて加熱し、底が熱されるのを少しの間待つ。

 よし、今のところは順調に進んでいると思う。

 ベッドの方に目をやると、彼女はむこう側を向いて横になっていた。掛けられた毛布が一定のリズムで膨らみ、またしぼむ。安らかな寝息と取れる息遣いが微かに聞こえる。
 何だよ、作らせといて眠ってしまったのだろうか?とはいえ僕も飲み会などを理由に彼女の料理を無下にしたことがあるので、とりあえずは邪な感情を隅に追いやる。

 野菜と豚肉をフライパンに投入すると、油が小気味よく跳ねた。菜箸で右に左に、時折ひっくり返すことを意識し、混ぜていく。次第に火力を下げ、みりん、醤油、ほんだしを注ぐ。よく混ぜ合わせたところで一旦火を止めて、キッチンにもたれて目を瞑る。
 しばらくすると炊飯器が「米が炊けたよ」と可愛らしい声で教えてくれた。
 コンロの火をつけて、円を描くように水溶き片栗粉をフライパンへ注ぐ。充分に混ぜた後、菜箸の先で軽く味見をしてみたが、熱くてあまりわからなかった。まあとりあえず、火は通っているということだ。

 そろそろ準備が整うと彼女に知らせると、眠たそうに「ん」とだけ返ってきた。毛布のずれる音が微かにする。

 料理を皿に移して部屋に持って行く頃には、彼女は既にローテーブルの前に座っていた。

 「いただきます」

 僕が配膳するや否や、彼女は箸を広げていそいそと食べ始めた。
 向かいに腰を下ろして、熱そうにしながら一生懸命に食べる彼女を眺める。

 「どんな感じ?」

 味を尋ねる。

 「しょっぱくて、美味しい」

 小言混じりの褒め言葉が返ってきたので、不服を覚えながら僕も一口いただく。咀嚼すると、確かに味が濃い。醤油か何かを入れすぎたのだろう。

 「しょっぱくて、美味しいなあ」

 また言うので、睨みつけてやろうかと思った刹那、薄い湯気越しに微笑む彼女に心を奪われそうになる。立ち上る水蒸気の雲が嬉しそうに身体をくねらし、抜けた先から降り注ぐ光。朧げな心象風景が、時を止めて眼前に具現化されていく。

 景色が元の形に戻る頃、僕はもう一口分を箸でつまみ、口の中へ運んだ。目を閉じて、さっきよりもゆっくりと咀嚼し、味に意識を集中させる。しかし噛めば噛むほど、塩気はさらに増していくかのようだ。野菜も火を通しすぎではないだろうか?少々焦げっぽい匂いと、ざらざらした食感が気になる。

 これは成功とは言えないか。
 1人反省する僕をよそに、彼女は相変わらずしょっぱそうに食べ続けている。わざとらしくも見える表情が憎たらしいが、どうやら箸を止める気配はない。

 やがてして、弱った体のくせに僕が食べようと思っていた分まで綺麗に平らげた。

 「苦しい」と助けを求めるように見つめてくる彼女に、今日は少しだけ愛らしさが勝った。


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