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突然noteを書いたわけ-じっちゃん先生の終わらない指導編-

勇気を出して、日記投稿したものを公開してみてから早2日、たくさんの方に読んでもらって本当に嬉しいです。ありがとうございます。実は、突然このような行動をとったのは、先月末の恩師とのやり取りがきっかけになったので、その日のことも記しておこうと思います。

 ことのはじまりは、出身高校での出前授業に呼んでもらったことだった。私が母校に帰るに当たって、連絡を取った先生が何人かいたが、じっちゃんのことは忘れていた。私の人生で忘れてはいけない恩師なのに、かたじけない。忘れていた。
私が母校に行くことをじっちゃんに伝えてくれたのは、出前授業の話をもってきてくれた、事務員のマリコさん(限りなく本名に近い仮名)だ。じっちゃんからひさしぶりに着信がなった。

 じっちゃんは、国語の先生だった。小柄で若白髪なのか、外見をそんなに気にする感じでもなくて、たぶん年齢の割に風格があったので、私が高3の20年前にはすでにじっちゃんと呼ばれていたから、もうおそらく四半世紀以上じっちゃんと呼ばれていることになる。おそらく当時はまだ50代だったことになるから、気の毒な話だ。

 じっちゃんの授業はかなり独特で、ちゃんと指導要領通りにやっている先生が見たら腹を立てるのではと心配になるくらいに、独特だった。進学者のいない専門高校だったからできたことかもしれないが、映画やお芝居を見せたり、台本を見せたり、台本を読ませたり、とにかく、教科書とは関係のないことばかりで、私たちのテストはいつも散々なものだったことを鮮明に記憶している。

 そのじっちゃんと私が深く関わるようになったのは、大学進学を希望していた私への小論文対策を担任の先生がお願いしたからだった。個人指導のときのじっちゃんは、普段の適当な感じが抜けて、ものすごい量を毎日課され、かなり細かく添削してくれて、最初は数名いた受験仲間が、一ヶ月もしないうちに私だけになっていた。おかげで私には生まれてはじめてペンダコができた。インターネットが今ほど発達していなかったあの頃、進学校に勤めていた頃のツテを使ったと言っていたが、とんでもない量の過去問や模試をかき集めてきてくれて、当時の私は、ウゲー!だったが、今思えばこんなにありがたいことはない。正確には覚えていないが、最初は木曜日の放課後だったのに、朝課外の前の時間や放課後や休み時間を費やして、指導してくれたおかげで、私は無事、第一志望の大学に合格できた。後から聞いたが、学校からの推薦文と所見は、じっちゃんが担任から頼まれて書いたらしい。

 そのじっちゃんの、高3三学期の指導がまたユニークで「自分史」の作成だった。生まれてから、18歳になるまでのことを書くというもので、これはものすごい労力がかかるから、おそらく学校でさせる課題ではない。でもじっちゃんは、どの部分から書いても、時系列でなくてもいいから、とにかく、なんでもいいから、18歳の今しか書けないことを書け、誰にも読ませなくていい、 見せたくないなら俺にも見せなくていいから書け、と2ヶ月近くを、自分史の作成に当てさせた。忘れもしない、最後の期末考査のテストは、「自分史を書いた感想」だった。

 じっちゃんが、私の自分史を添削した後にコメントしてくれたことをうっすら覚えている。「30年近い教師生活で、1位2位を争う文章の量。(争い相手に思い出す人物は○○高校何年卒の○○さん)御前は書き続けて定期的に新聞に投書なさい、書いたものを取っておきなさい、いつも心を大切に。」御前って、丁寧語だったんだ、と衝撃だったので覚えている。

 卒業後20年、私はじっちゃんの教えを何一つ守っていない。電話で「なあんや!つまらん!書きよらんとか!なぁんや〜」若干滑舌が悪くなった気もしなくないが、声の調子はお世話になっていた頃とかわらず、またあの頃のように叱り飛ばされた。

「俺ね!その日は用事があるけん、いけんとたい!いいや!おまえ!また来いよ!いいや!ちゃんとなんか書いとけよ!こっちの新聞に、ウェブ版から投書しとけよ!」

 耳が遠くなったのか、あだなのじっちゃんに、年齢的に追いついてきたのか、言いたいことを言ったじっちゃんは、こっちが喋っている傍から電話を切った。

 投書は次会うまでもしないと思うのです。その代わりに、先生に次あうまでに、ほーら!ちゃーんと書きよったろう!と言えるように、noteに残しておこうと思ったのです。URL、年賀状に書いとこうと思います。

ここまで読んでくれた方がいたらありがとう🦥
そんな気分で急に書き始めました!という話でした。

 


 


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