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#27 憧れは何処に

高校生のぼくは、言葉を発することができなかった。
厳密にいうと、主語や動詞、接続詞、全くわかってないくらい阿保だった。いや、阿保なのは怖くない。笑われるのが怖くて、言葉に変えることが異常に怖かった。

その頃、活字はあんまり読めなかったけれど、図書館の雰囲気は好きで、読むというより眺めて 何かを感じていた。

その頃から、ファッション誌を読んだ。
装苑/TUNE/FRUiTS/studiovoice/CHOKICHOKI/olive//
スナップに映る人々が光って輝いてみえた。言葉以外での表現を知った。

ぼくの暮らす(田舎の)町にいない 個性豊かな装いをした四、五歳上の大人たちがかっこ良くてみえて、自分の知らない自由を知っているのだと思った。

先輩たちは TV番組でファッションショーが流れていたと聞いた。その時代を知らない僕は、雑誌の二次元でしか〝ファッション〟を感じることができず、ひたすらに遠い存在だった。(ちなみに数年後、メンズノンノのスナップに載って恥ずかしくて捨てた過去がある。)

あれから、10年以上経っている。

今の高校生は、何に憧れを感じているのだろう。
明らかに大人と違わない装いをしている人たちが増えたのは、ファストのおかげか。SNSやメルカリなどの発展のおかげか。

(もうバッドボーイやpicoのTシャツを着てる人はいないのか?)

いつものように雑誌やドロップトウキョーをみていた
僕の日常も当然のように変わっていた。

(おそらくだけれど)いま 憧れの先は、YouTubeやInstagramにあるのかもしれない。オンラインに移行してしまった。いや、二次元のスナップに憧れていたあの頃から現実から 遠ざかっていたのだ。

憧れは、いまの自分から「遠い」という条件で 発生する。

恐れながらギャルソンの店舗に入って奇抜なスタッフに声かけてもらい、なんだか嬉しかった日があった。

仲の良い古着屋のスタッフさんのDJイベントに参加して、ビールを奢って貰って認めてもらった苦い味の日があった。

次第に「近く」なると、憧れは日常に。
さらにちがう所を探し求めようとしたが、そこで気が付いた。

憧れは、暗がりの部屋で一人、膝を抱えて、TVを点けているような感覚だった。自分の中に無いから、遠く輝いてみえる。電気を付けたら、たちまち部屋全体が明るくなって、視点が広がり、TVに意識を向けることが減っていくのに。

つまり、自分を信じることができたら、明かりが点くことを知った。

それから憧れではなく、過去を漁った。
「できない」が「できる」になるように。
「できる」が「もっとできる」になるように。

一七歳から二十一歳の頃まで微かにあった「憧れ」のような気持ちは、それ以降、ない。(厳密にいうと、誰かのような形はぼくと合ってるかという比較はある。)

比較は、ものさし。
ただの測るもので、手段。そこで、感情は使わない。
「憧れ」と「現在」ではここに違いを気付き、
じゃ、次どうしよっかでしかない。

世の中が変わると、スポットライトの位置が尽く変わっていく。
それに合わせ変わり続けるのか、世の中の光が当たることなく自分をただ磨いて光らせていくことなのか。その答えだけがある。

「近い」と「遠い」をつくることは、
自身を投影する上で とても大切なことだと知った。

コーヨー
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