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違和感

 ご訪問ありがとうございます。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策にまつわる法的な問題点について,これまで思いつくままにつらつら述べてきました。

 疑問点はいつも多く,それにも増して,表現し難い違和感が常につきまとってきました。

 その違和感の正体は何なのか…。
 それがようやくわかった気がします。

 結局,新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)の枠組みにあるのではないかというところです。
 現状,今回のCOVID-19事態に対し,適用されている主要な法律は特措法です。ほかにも,感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症予防法)などもありますが,運用されているのは主として特措法でしょう。

 もちろん,各種助成金や給付などに関しては,例えば,雇用保険法に基づく雇用調整助成金などがあり,他の法令も機能しています。しかし,国民や民間企業の動きを統制する方向では,基本的に特措法が運用されていると思われます。

 特措法は,私権制限にわたることについての謙抑性の観点から,罰則付きの強制条項が非常に少なく,大半が協力依頼や要請,踏み込んでも指示にとどまる規定となっていることは,本ブログでも何度見みてきたとおりです。

 ここでいう指示の性質は曖昧ですが,「要請」が純然たる行政指導であるとすると,強制力を伴わないものの指示を受けた者にこれに従う義務を生じさせるが,その履行を担保する手段が定められておらず,強制力を持たないものという鵺的なものといわざるを得ません。

 とはいえ,告知・聴聞等の手続が置かれていない以上,行政処分とも言い難く,敢えて言えば,強めの行政指導とでもいうほかないのではないでしょうか。

 ですから,「要請」に関しては,要請を受けた側の同意が,「指導」についても,これを受けた側の「任意」の対応のみが,“法律による行政”を担保するということになるはずです。

 ところが,特措法に基づくのか基づかないのかすらよくわからない「自粛要請」の濫発,加えて任意に協力しない施設等の公表,“自粛警察”とも揶揄される市民通報,果ては“自粛違反”なる語義矛盾の珍ワードまで生まれる始末です。

 まさに,行政指導について講学的に指摘される,「私人の自発性の名のもとでの法治主義の実質的な空洞化」が生じているのではないかと懸念されます。

 強権的な私権制限をともなわず,緩やかな行政の指導と,市民の自発的協力により大規模感染症に対応するという仕組み自体を否定するものではありません。

 しかし,“空気”や“忖度”により,法的根拠を伴わず,また,適正手続(告知・聴聞の機会,異議申立手続等の保障)を伴わない中で,事実上の私権制限が広範に行われる状況が果たして望ましいのかどうかは今一度考える必要があると思います。

 また,法定の手続(強制力を伴うもの)の制度設計を回避したがゆえに,補償の問題の検討も回避されているのではないかと思われます。

 特措法が制定された当時(2012年),果たしてこれほどの大規模感染症を視野に入れていたのかどうか。まずそれが疑問です。
 仮に,視野に入れていたのであるとすれば,もっとも重要かつ緻密な利益衡量や調整を必要とする部分について,立法府が討議を回避したのではないかと指弾されてもやむを得ないでしょう。

 なお,新型インフルエンザ等対策特別措置法の逐条解説によると,特措法45条に基づく使用制限等の要請等について,公的な補償が規定されていないのは,「事業活動に内在する社会的制約と考えられているため」とのことです。その一方で,「期間が一時的」であり,「強制的なものではない」ことも正当化根拠として挙げられています。

 しかし,期間が長期化しつつあり,かつ事実上の強制力を伴う措置となりつつある現在,逐条解説の説明では正当化しきれない状態になってきているのではないでしょうか。
 
 個人的には,感染症の蔓延防止のために,政府や自治体が進めようとしている対策の方向性そのものに反対するものではありません。しかし,私権制限を行うのであれば,明確な法的根拠と,必要に応じた補償は,憲法的要請でもあります。
 強制力を伴わない要請だからと濫発し,補償は検討しないか実施しても到底「正当な補償」に達しない水準で,その一方で,社会的圧力を喚起して事実上の強制力を発動し,行政目的を達成しようとする…このような国家が健全な法治国家であるとは考えられません。

 以上,私の違和感でした。
 みなさまはどのように考えられるでしょうか。


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