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【恒星の万画越境ストーリー 〜作品を描く前に考えていること〜】


これから書く文は、絵を描いていないときに思いついたまま書いただけのものです。特段為になることなど何もありませんので、本当にお暇な時にだけ、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。


自由意思がないというのは確かにそうで、ネットの出現で情報が民主化したとはいえ、アルゴリズムで勝手にお勧めされるものを観ている限り、自分で選んでいるようで全く選んでないですからね。

ネットのない時代でも目の前の環境に左右され、依存せねば生きられないといえば、外界に主導権があり、今と変わらないといえば変わらない。現実だと思っているのは、勝手な人の解釈、脳の中の投影であって、この一瞬一瞬は、たった今、仮に想定している現実ですというわけだ。それを略せば仮想現実ですねと。だからこそ、その仮初であり、不自由ともとれる曖昧模糊な結界のなかにあるからこそ、自由をより感じるのが人間なのかもしれません。自動的にそういう流れにしておかないと混乱しますしね。

次の一手はこれしかない!という限界ギリギリの中での自由。次の一手を選んだのは他でもない私自身だと確信するしかないという自由。他の動物たちも変わらないが、やっぱり人は外界に対しての過剰な危機感、過度な恐怖感がために脳を大きくし、松果体を奥に引っ込め、言語を複雑化する以外に外界との折り合いがつかなくなってきたと。過敏な感覚がありながらも、鈍感さと忘却の限りを尽くす姿勢が「未知への探求」となり、それを絶対に止められない稀有な動物なのでしょう。その中で「同じ」くする感覚をブーストさせ、行き着く果ては、無駄な抵抗をせずにエネルギーを生み出す技術なんでしょうが。そこまでいくまでに人類が存続しているかは分かりませんがね。忘却の限りを尽くす姿勢と、下山出来ないその姿勢が自らを滅ぼしかねないですからね。環境問題も大事ですが、そっちの危機感の方が私は強いわ、、。

「同じ似てる違う」を超えるものは何かと考えれば、それは「全てが融合している状態」でしょうが、現在、たった今も考えようによっては「全てが融合している状態」なわけで、結局は人が知覚するうえで、一旦「同じ似てる違う」を使い分けて考える以外に考えようがないと。論理的に考えない選択をした場合、感覚と身体が完全一体化して行動する動物と同じようになると。

しかし我々人も、実は目の前の外界と言語で関わっているわけではないので、感覚と身体、そして目の前のこの外界と呼吸しながら、常時非言語でコミュニケートしているわけにおいて、「全てが融合している状態」でもあるわけだね。堂々巡りのようでいて、しかし確認経過としては、私にとってとても重要。

そんなわけですから、外界とのコミュニケートに過敏になり過ぎていることを自覚しているので、ついついぼーっとして、茫漠たる仮初現実と折り合いをつけるために、ただただ絵に没頭する以外に生きる道がないのですね。こうしてマトモに人とコミュニケート出来ないまま日々が過ぎていくのは、間が悪い、流れがヨロシクナイ。ストレスとは出来ることを出来ないときに発生するんですね。

目の前のちっさい昆虫や、蚊蜻蛉やナメクジを見るにつけ、それらは曾祖父さんの化身かもしれず、果ては自分かも知れず、吾輩は猫であり、カフカの変身での虫であり、

「方丈記」の冒頭文の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。」は永久不滅の傑作文であるでしょう。

最近は、自分は植物のようだと思っていて、いつまで描いても10,000点には到達しない、ゆっくりとした歩みを客観的にみると正に植物の成長よりも遅いと実感しているんですね。植物にも虫にも成りきれない生きぞこないの無能の所業であります。無能無学の人。

前回noteで書いた、「表出と表現」は、今気が付きましたけど、全くもって方丈記の冒頭の泡の観察と同じだな!と驚いてます。今気付いたけど、いやぁ、凄えね、鴨長明さん!と叫びたくなりましたわ。

無常観の反対、逆は何かと今考えてみると、自分にとっては間違いなく、芸術なんだなと、ハッと気が付きましたわ!!

無常観の反対は芸術表現ですわ。
反対ではなくて、地続きにあるものが芸術ですわね。無常を感じるからこそ、それを乗り越えるために芸術が必要なんですわ。

はぁ〜。さて絵を描こ。

お読みいただきありがとうございました。

感代謝

万画越境の真っ只中、
恒星より。
a ri A Ru Creationz
星座を歩くアートクラス

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