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『軌跡を辿る』に至る経緯


●はじめに●

 初めまして。ふくらと申します。
 日々猫をモフり、天然石を愛で、時折ふらっと出かけたり古書に埋もれてみたりしている者です。
 古書は某ソシャゲで知った直木三十五先生の作品や随筆、または第三者から見た『直木三十五』に触れてから、その文章や物語は勿論のこと、本人に惹かれて様々な彼のいる本を探して古書市などにふらりと足を運ぶようになりました。神保町の他にも、気になった古本屋さんには足を運んでみたり、それはまさにその軌跡を辿るようなものなのでしょう。
 さて、その結果。
 大正後期~昭和前期に発行された雑誌を探すようになりました。
 きっかけは『文藝春秋』。かの菊池寛先生が創設した文藝春秋社で発行された雑誌です。様々な文士達が集ったこの雑誌は、何かと注目を集める存在でありました。そこに良く書かれていた一人に直木先生がおられたわけです。
 しかし、彼は普通に書いているだけではなかった。
 匿名でゴシップ記事なども書いていたので、探している方も油断出来ないのです。文章の感じ書き方からして、これはきっとそう……! という記事が面白くてそれを辿っているうちに、今度は『全集などの本に未収録である』小説や随筆が出てきてですね……。
 え、これこのまま消えてしまうのはちょっと、嫌だなぁ。
 と、思ったので。少しでも形に残そうと思いまして、忘備録的な感覚でnoteを綴り始めました。未収録の随筆や作品を雑誌から打ち込んでおります。ご興味を持ちましたら是非にお付き合い頂けたら嬉しく思います。

●直木三十五とは●

 1891年(明治24年)2月12日生/1934年2月24日没 享年43歳。
 本名・植村宗一。
 大阪府大阪市南区内安堂寺町に生まれる。花園小学校、育英高等小学校、市岡中学校に進学。
 一時期、薬局員や奈良県の小学校臨時教員も務めている。
 明治44年、早稲田大学英文科予科入学。しかし学費が払えずに除籍。その後早稲田美術研究会記者、大日本薬剤師会書記などを経て大正7年にトルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設する。
 大正8年から雑誌『主潮』を発行。しかし刊行会から離れ、仲間と冬夏社を立ち上げるが半年で倒産。雑誌『人間』や元泉社の経営などを手掛けるがいずれも事業としては失敗に終わる。
 小説家としての一歩は、大正12年関東大震災後、大阪に戻ってからプラトン社で川口松太郎(後の第一回直木賞受賞者)と共に『苦楽』の編集担当となってから。『仇討十種』に収録されている処女作を掲載することとなり、この頃から大衆小説を書き始める。
 一方で映画の世界にも関心があり、映画製作にも乗り出したこともあったが、週刊朝日に掲載した『由比根元大殺記』や、東京日日新聞・大阪毎日新聞に掲載した『南国太平記』などで流行作家の地位を確立する。
 作風は、時代小説や時局小説、現代小説など幅が広く、また大衆文芸を中心とした文芸評論や随筆も多い。
 しかし昭和9年、結核性脳膜炎で東大病院にて逝去。
 その翌年、友人の菊池寛が『芥川龍之介賞』『直木三十五賞』を創設。名を冠した文学賞は現在まで灯は続いている。

(参照・直木三十五文学館『直木三十五について』


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