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スマホで長めの文章を書いてみること、「ちゃんと書く」こと。

このnoteは、旅先の乗車2時間ばかしで書いている。

タイトルにあるように、スマートフォン(以後スマホ)で長めの文章を書くって、やろうと思えばできるだろうと思っていた。しかし、今までやってこなかった。なぜだろうか。

ちゃんと書こうという気持ちが、スマホで書くスタイルから遠ざけるのだ。「ちゃんと書く」ことは、長い文章になりがちだ(短い文章を軽んじているわけではない)スマホで長い文章を書くという行為が、ラフで軽い感じで文章を書いてしまう印象をじぶんの中で持ってしまっている。

ちゃんと書くなら、じぶんの場合、MacBook Airを自宅かカフェ(充電できるところ)の机の上で開いて、ぐわぁーと一気に書き始める。一つの儀式みたいなものだ(といっても、普段からたくさん文章を書いてるわけではないので、あまり一端っぽいことを書くと、正直恥ずかしいし、虚勢をはっていることに、なるので、あまり、こういうことを書かない方がいいのかなと思っている)

この儀式は、「じぶんは、ちゃんと文章を書こうとしているぞ」と無意識に、じぶんに言い聞かせているのだ。

例外がある。ツイッターの文章だ。ちゃんと書くという意識から少し遠ざかって書けるのだ。なんでだろう。書ける文字数が限られているからだ。投稿した140文字の文章は、タイムラインがどんどん流れていくから、人(じぶんも含めて)の記憶にそんな強く残らないからだと思う。「ちゃんと書く」ことへのハードルが低く感じられる。一応ツイッターの文章も、少し時間をかけてはいるが、noteほど時間は、かけていない(もっと時間をかけた方がいいとは個人的に思っている)

少し長め文章を書くことになるだろうという、じぶんの中での書く前予想は、「ちゃんと書く」ということを、じぶんに意識させてしまう。時に書くことを億劫にさせる。


でも、この「ちゃんと書く」は、書く動機や感じたこと、思ったこと、考えたことを遠ざけて、曖昧にしてしまう。感情の鮮度も失わせてしまう。

あとで書こうと思って、いざ書き始めると、手遅れになっていることが、ほとんどだ。忘れないように、メモをとったりするが、書いている時のテンションまでは、メモには残せない。そこには情報が残っているだけだ。書かれた情報を読んで思い返すと、また違う感情が生まれることがあるが、メモを書いてた時の感情は、蘇ってこない。下手すると、補正がかかって、別ものとして、蘇ってしまうことがある。

「ちゃんと書く」から抜け出したい。その解決策になるんじゃないかと思っているのが、スマホで、その場で、書き始めてしまうことだ。とりあえず書いてしまって、あとで、ゆっくり机上のMacBook Airと、にらめっこすればいいんじゃないかなと思っている。しばらく、やってみるぞ。

今回、このnoteをスマホ書いてみて思ったことを、書いてみました。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

#コルクラボガーデン


サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。