独立映画鍋『《緊急集会》なぜ芸術に公的支援は必要か?〜』感想文

10/23に行われた独立映画鍋主催の『《緊急集会》なぜ芸術に公的支援は必要か?みんなで考えるニッポンの文化 〜あいちトリエンナーレ補助金不交付問題を受けて~』に参加してきました。

アンケートで送った内容ですが、こちらでも公開したいと思います。

まず全体の感想としては、大変素晴らしい会で、参加して本当によかったと思うのですが、一方で、今回集まっていたのは元々問題意識や当事者意識を持った人たちであり、そうした人たちが互いに知見を深め合ったことの意義は大きいにしても、運動としての広がりを持つものではなかったのかもしれないと思いました。
会の後半で、「論理的な正しさだけでは通じない」という意見もあった通り、こうして集まって正しさについて論じる一方で、集まること自体が一つのムーブメントとしての意味を持たなければ実効力を持ち得ないのではないかと思いました。だから、東京中のアーティスト(特に問題意識の低い若いアーティスト)が集まるまで毎週開催するべきなのではないかと思いました。

ここからは、集会で上がった議題に沿って私見を述べていきます。

1.芸術に税金を使うこと
問題なのは芸術に税金を使うことの是非よりも、その正当性と説得力なのだと感じました。
当然ながら、税金とは再分配の装置であり、国民全員に還元されなければいけないわけで、その意味では芸術家もまた国民なので、芸術家のために税金が使われるのは当然の権利だと言うことができます。もちろん現在も芸術分野に税金の一部が使われているわけですが、なかなか芸術活動をしている各個人が実感できるほどまでには行き届いていない現状があります。その点で言えば、必ずしも映画製作や映画祭への助成ばかりでなく、例えば市民が利用できる公共のアトリエがあったり、利用可能な映像や音楽のアーカイブが作られたりというように、市民が芸術にもっと関われるような使い道に使われる方が、市民の芸術への理解を高め、却って映画製作への助成に対する理解にも繋がってくるのではないかと思います。
市民の芸術への関心の低さというのは、会の中でも度々話題に上がっていたかと思いますが、それは芸術が市民生活からあまりに遠く隔たったところにあるからだと思います。ですから、我々芸術家は最終的に税金を芸術活動に還元してもらうためにも、芸術を市民生活の中に位置付け直さなければいけないのだと思います。
一番わかりやすいのは、今回の集会に参加してくれていた高名な芸術家の皆さんがもっと教育の現場に出てゆくことだと思います。特に小中学校の教育の現場へ。
日本の教育の現状は割と最悪だと思います。受験というものが経済的な有用性を持ち、一つの産業となってしまっているからです。受験において重視されるのは教育の豊かさではなく、効率性です。受験産業の膨張によって子供達は消費対象となり、効率性を要求され、高得点を取る技術ばかりを身につけていきます。そして、賢い子供はもっとも効率よく高得点を取る技術を身につけます。それは簡単に言えばズルをすることです。ばれなければ宿題は答えを写して持っていけば良いのです。そうやって育った子供たちが、エリートと呼ばれ、大企業に就職し世の中を回していきます。その結果今の日本では何が起こっているでしょうか。そう、大企業や官僚による不正です。結局、日本が経済大国であるのは得点を取るのが上手いというだけで、実はハリボテなのではないでしょうか。
芸術はそうした効率性に対抗する力があります。ですから芸術が教育に分け入っていくのは、単に芸術のためばかりではなく、日本全体のためでもあるのです。その有用性を市民が理解し、その必要性が認められればそこに税金が使われるようになってゆくのではないでしょうか。必要性を論理的に主張するよりもまず行動してしまい、その必要性を認めざるを得ない状況を作り出してしまう方が実は早いのではないかと思います。

2.「表現の自由」と検閲
愛知トリエンナーレのニュースや『宮本から君へ』の助成金不交付にニュースに寄せてそれを検閲と捉える主張が見受けられましたが、少し大袈裟というか、論点のズレを感じました。
今の日本の状況の問題は検閲ではなく自粛にあると思います。検閲という言い方をすることで、本来「私たちの問題」である自粛の問題を「行政の問題」ばかりであるかのように見誤ってしまっているのではないでしょうか。もちろん「検閲」という言葉を出すこと自体が、行政による検閲への警戒になるということもあるのでしょうけど、現状に即さない極端な表現を用いることで国民の中の穏健な意見の持ち主を置いてきぼりにしてしまいやしないかと懸念しています。
今回の不交付の決定がそうした自粛を促すことになるという意味で行政の判断が不適切なのはいうまでもないですが、そこで自分たちの在り方に自覚的になることが何よりも大切な気がします。

3.公益性とは?
芸術の持つ公益性という観点で持論を申し上げると、人間に内在する暴力性や変態性、異常性を制度内で発散させることができるということが挙げられると思います。人間は誰しもその内奥に異常性を抱えた存在だと思います。そして、どこがどう異常なのかは人それぞれです。ですが、その多くは社会的・法的に許されないものだと思います(だからこそ異常性というわけですが)。
しかし、社会的・法的に許されないからと言ってその異常性がなくなるわけではありません。それは発散の機会を失えばただ燻ってゆくものだと思います。抑圧され燻った異常性が爆発した時、それは犯罪という形で現れることもあります。
だから、人間の持つ異常性は、公益性の観点から法的に抑制されながらも、うまく制度内(法律から逸脱しない範囲内)で発散させる必要があります。その方法として、スポーツや芸術というものがあるのだと思います。例えば格闘技は、人間の持つ暴力性を存分に発揮させたスポーツですが、明確なルールや階級を設けることで、その暴力性を制度内に取り込むことに成功していると思います。
芸術においては、より広範な人間の異常性、変態性を制度内で発散させることができます。その意味で言うと、芸術は道徳よりもむしろ、不道徳でありながらも世の中に確かに存在する人間の異常性に目を向けるところにその公益性が発揮されるのだと思います。
ですから、愛知トリエンナーレの『表現の不自由展』は、それによって傷ついた人がいたのだとしても、多くの人がそうした表現が確かに存在するという事実に目を向ける結果となり、芸術の在り方についての議論を世の中に巻き起こした点でかなり公益性があったと言えるのではないかと思います。

4. 今後の文化庁との向き合い方
今回の助成金の不交付の件について抗議をし、対話を続けてゆくことは当然必要ですが、並行して税金に頼らない芸術製作を模索する試みも必要だと思います。
日本はフランスの芸術制度に50年遅れをとっていると深田さんはおっしゃっていましたが、50年経っても日本は今のフランスのようにすらなれないのではないかと思います。
日本は芸術制度においては、全く先進国ではないのだという自覚を持つことがスタートラインだと思います。そして、後進国だという自覚によって今までにない全く新しい形から始め直すことができるのだと思います。例えば、愛知トリエンナーレの助成金不交付を受けて、内部ではその分を民間から募るか議論になった末に、民間から集めてしまったら公的資金の不交付に正当性を与えてしまうことになるとおっしゃっていましたが、その民間の資金のネットワークを日本にとどまらず世界に広げて募ることができたらまた状況は違うのではないかと思いました。
グローバル化の進展によって、国家の重要性はこの先どんどん低下していきます。一方で、文化や経済は軽々と国境を越えて、世界中の都市とのネットワークを構築していくことでしょう。現在、各国で右派政党が政権を握り、右傾化が進んでいるようにも見えますが、そこにかつてのような国民的熱狂はなく、政治家が自らの仕事を守るために国家の必要性を一生懸命に喧伝しているのだとも言えます。そうした文脈で眺めてみると、行政が権力を行使して芸術への助成に制限を加える行為は国家の存在感をアピールするためのパフォーマンスにも見えます。
しかし、芸術は必ずしも国家を必要としません。芸術が公的な資金を必要とするのは事実ですが、その「公的」の意味を世界市民という意味にまで拡大して考えることができる時代に私たちは差し掛かっているのではないでしょうか。今の日本の芸術の置かれている状況を世界に訴え、賛同者から資金を募ることによって、国家に頼らない芸術製作が可能になるばかりでなく、日本の政府は世界から厳しい批判の目で見られることになります。政府が国家の存在感を維持したいと考えるならば(そして正しい判断力を備えているならば)、政府は存在感と世界からの信頼を回復するために、芸術への出資を緩和せざるを得なくなるのではないかと思います。
これはもしかしたら、はるか遠く未来の話なのかもしれませんが、そうした未来形の議論をすることによって未来を少し近づけることができるのではないでしょうか。
映画鍋での議論は現状については非常に精緻な考察と議論がなされていると思うのですが、どうもフランスの制度との比較が多く、それが現実的な議論なのかという点を疑問に感じます。それはちょうど明治期に夏目漱石や森鴎外が感じた、日本の外発的な近代化への疑問、つまり外国の制度をそのまま日本に形式的に輸入してそれが正しく根付くのかという疑問とも通じるところがあると思います。特に森鴎外は、日本独自の近代化を模索するのが適当であるということを主張しておりましたが、今まさに日本の芸術制度は近代化を求められているのであり、それに当たって外国の制度を模倣するのが正しいとは限らないのではないかと思います。むしろ日本の後進であることを逆手に取って、未来型の芸術制度を構築してゆくべきなのではないでしょうか。

最後に。
今回のニュースは日本の芸術にとってとても悲しいニュースですが、これを機に多くの芸術家や市民が問題意識を持ち、世の中が面白い方向に向かうことを願っています。正解があるわけではないですが、みんながこうした議論を避けてしまうことが一番よくないと思います。芸術は爆発です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?