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『演技と身体』Vol.52 反応と応答

反応と応答

反応の鮮度

最近、ふと考えたことを忘れないうちに書き留めておこうと思い書くものである。
演技の中で上手く反応することが大事なのは言うまでもない。よく反応するためには、相手をよく聴くこと、相手に十分な注意を払うこと。当然このようなことが思い浮かぶのだが、何かそれだけでは十分ではないような気もする。
というのも、相手に注意を払っている時、初めから自分が何に反応をするかを決め込んでしまっている節があるからだ。もちろん、相手の演技も毎回厳密に同じということはないので、それに適切に反応できればその反応は演技の一回性に適ったものになるだろう。しかし、初めから何かに注目をするということは、その他のものへの注意を切り捨てることにもなる。だから、相手のある部分に注意を払い過ぎていると、もっと細かい部分や思いがけない部分を見逃すことになりやしないだろうか。
そして、その結果テイクを重ねていくと決まり切った反応に収束していき、結局予定調和な感じがまとわりつく。
テイクが重なるにつれて反応の新鮮さがなくなっていくのはある程度仕方のないことなのかもしれない。しかし、技術的な問題や不測の出来事によってテイクを重ねざるを得ないことは毎々である。だから仕方がないで済ませたくはないのだ。

そもそも“反応”とは何か

ところで、僕はそもそも“反応”について考えていたのではなく、“反応しない”ことについて考えていたのだ。
これは演技のためというよりも、日々の生活の中でいかに自分の内部騒音を消すかを考えた時に、是非とも必要な技術だと思ったのだ。東京は騒音が凄まじい。どこにいても工事音や機械音が聞こえるし、視界に広告が映らない瞬間がない。人々は常にイラついて貧乏ゆすりをしているし、電車内では隣の人のスマホの光がチカチカと目を刺激する。こうした諸々のノイズに反応をすることで内部騒音が生まれ、心はザワザワと落ち着かなくなる。だが逆に、これらに反応せずにいられたらこのコンクリートジャングル東京においても静寂を得ることは可能なのだ。

そこで瞑想をしながら、“反応しない”練習をしてみることにした。色々と感覚を試していると“反応しない”ということは思っていたのと随分違うということに気がついた。
“反応しない”といえば、刺激に対して無反応であること、全く動じないことをイメージする。つまり、完全に自己を世界に対して閉じることだと考えていたわけだ。しかし、どうやらそうではないように思える。
“反応しない”をする前に、“反応する”というのがどういうことなのかを観察してみる。すると、家の前を通り過ぎる車の走行音や近くの工事の音に対して首の周りや背中の筋肉が思わず強張るのがわかる。筋肉が強張るとは、まさに自らを閉じて守ろうとする働きである。
つまり、自己を閉じることはむしろ周囲へ反応する時に無意識に起こっていることなのだ。
すると、“反応しない”とはこうした筋肉の強張りを意識的に取り除いて、それらの音が自分の中に入り、通り抜けてゆくのを許すことである。
そして実際にそうしてみると、体の中で起こるのは周囲の音との共鳴である。人の体は実際のところほとんど液体である。そして音とは空気の振動だ。音に体を許す時、自分の中に微かな振動を感じる。
それをあらゆる音・視覚情報に対して全方位的に行う。すると、自分の体は空間の中で揺らぐ一つの振動体と化す。蝋燭の上でゆらめく火のようなものである。
この感覚は思いの外心地が良い。自我を一切放棄して、場の流れに身を委ねる。そこで鳴る音が良い音か悪い音か評価したりせず、全てを受け入れるのだ。するとそれまで嫌だと思っていた音もそれほど不快には思わなくなってくる。
このように、“反応しない”ということは、周囲に対して無反応でいることではなく、周囲と一体的に振動することなのだ。そもそも無反応でいることなどできない。なぜなら我々は良いものであれ悪いものであれ、それらと共に生きているからだ。無反応でいることはそこに在るものを無いものと扱うことであり、端的に嘘なのだ。
以前、空(くう)について説明したことがあったが、それは「何もない」ことではなく物事が「分別なく渾然一体としている」状態を指すものであった。ここでもやはり“反応しない”ことは、反応が「無い」状態ではなく、特定の方向性を持たずに全てと共鳴しあっている状態を指すのである。
翻って“反応する”とは、その中から一つの方向性を選び取ることに他ならない。ここではそれを“応答”と名づけ、一般的な「反応」という言葉のイメージと区別しておく。

反応から応答へ

従来の「反応」は、最初から何に反応すべきかを決めて身構えるものであるという点に問題があった。そこでは、注意を払う対象以外に対しては身体を閉じてしまっている。予想外のもの、偶発的なものは排除され、テイクやカットを重ねる中で新鮮さは失われていく。
そこで、まず“反応しない”=全方位的な共鳴状態を基本とし、きっかけを掴んだ瞬間、ある方向に流れこむ。そのきっかけは予め予定されていたものかもしれないし予想外のものかもしれない(きっかけは演出上予定されていたものでも構わない、重要なのはそれが不定状態をとることだ)。それは世界からのサインであり誘いだ。それに“応答”したとき、思いもしなかったところから感情がやってくるのではないだろうか。
感動は常に外部からやってくる。思いもしなかったところからやってくるのだ。誰かの頭の中で構想された感動なんて高が知れている。それをただ観客に押し付けるだけなら作品は作られない方がましだ。

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