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『演技と身体』Vol.35 無意識の話③ 心と無意識

無意識の話③ 心と無意識

前回までは、無意識を動作との関連の中で考えたが今回からは、心の働きにおける無意識について考えていきたい。
(なお、今回の記事を書くにあたって主に参照しているのは中沢新一『レンマ学』である。)

なぜ無意識なのか

まず、役者として無意識の問題と向き合うべき理由について述べておこう。
一つには、無意識は心の働きの大部分を占めるものであり、感情を表現するに当たって決して無視できないものであるということだ。無意識が表面化するということは剥き出しの心が表れているということである。
最も深い感情表現は無意識の表面化において起こるというのが僕の考えである。他方で、無意識は制御が難しくもある。だから正しく技術の範囲内でいかに注意して扱えるかが肝要だ。
また、観客は役者の身体や感情に同調することによって感動を味わうのである。役者が無意識を表出させるということは、観客の無意識に働きかけ、観客の無意識を引き出すということでもある
だが、無意識の表出とは常に心地よいものというわけではない。そこには強烈な暴力性や怒りも内在している。
そこで無意識についてある程度は理解しておく必要がある。
僕は、演技において無意識が表面化した状態には二種類あると考えている。
一つを「忘我」、もう一つを「恍惚」と名付けることにする。
この二つがどう違うのか理解するために、まず無意識について説明していく。

無意識は主に西洋で研究されてきたものであるが、実は東洋思想の中にも無意識に当たる観念が探究され続けてきた。しかも、西洋で心理学が発達するよりもずっと以前からである。そして、東洋の仏教思想の中に、西洋の無意識思想との対応関係があるだけでなく、それを超え出た大きな広がりが見て取れることを中沢新一は発見し、「レンマ学」と名付けたのだ。では、それがどのようなものなのかを簡便に説明した上で、演技と関連づけていこうと思う。
まず、西洋の無意識思想の基礎となっているフロイト的無意識とユング的無意識を紹介した上で、東洋のレンマ的無意識がどう対応するのか見ていきたい。

フロイト的無意識

無意識は心理学者で精神分析の創始者であるフロイトによって発見されたものである。フロイトは、精神病の原因が無意識にあると考え、夢分析などを通じて無意識に接近しようと試みた。
フロイトは、無意識界が「快楽原則」によって動いていて、それが意識界の「現実原則」によって抑圧を受けることによって病的に表出するようになるのだと考えた。だから、夢を見ている時など無意識が表面化した状態の中に無意識からのサインが見て取れると思ったのだろう。
簡単に言えば、無意識は意識によって常に抑圧を受けているので、抑圧を受けた無意識が表出する機会を捉えて無意識に接近することができると考えたのだ。
フロイト的無意識の特徴は、それが個人の欲動と深く結びついたものであるということと、無意識が言語のように構造化されたものと考えた点にある。
構造化されているということは、あらゆる無意識からのサインを言語レベルで読み解くことができるということである
重要なのは、フロイト的無意識が個人的な無意識であるということ、言語構造に立脚した因果関係を持っているということである。

ユング的無意識

それに対してユングは集合的無意識を主張した。つまり、無意識はフロイトが考えたように個人的な領域には収まらず、個人を超えた普遍的な性質を持つと考えたのである。
ユングが注目したのは世界各地の神話に見られる共通性である。世界には様々な神話があるが、そこには一定の類似性が見られる。しかも、ある地域の神話が他の地域に伝播したというのではなく、同時多発的に作られているのである。そこでユングは、そこには人類に共通の無意識が作用しているはずだと考えた。
ここからユングは、「共時性(シンクロニシティ)」「元型(アーキタイプ)」という二つの概念を作り上げる。
これらは、非常に神秘的な発想であるが、因果関係を超越しており、フロイト的無意識のように言語構造を手がかりとすることができない。
ともあれ、ユング的無意識の特徴を、フロイトとの対比で、個人を超えた(超個人的な)ものであり、言語構造で捉えきれないものであるとしておこう。

東洋的無意識

このようにフロイト的無意識とユング的無意識には齟齬があり、対立してきた。ところが、東洋的な観点に当てはめて考えると両者は矛盾していないことがわかる。無意識は二段構成になっているのである。個人的なレベルで働く無意識があり、さらにそれを包むようにして集合的なレベルで働く無意識が広がっているのである。
仏教思想では、人間の深層意識のさらに奥に阿頼耶識(アーラヤ識)というものの存在を考える。この阿頼耶識は、科学が発達する遥か以前にできた考えであるにもかかわらず人間の脳(ニューロン)の働きをとてもよく言い当てている。
詳しい説明は省くが、この阿頼耶識の働きがフロイトの主張する無意識の働きに対応している。つまり、個人に属していてしかも意識を超えたところで個人の振る舞いに影響を及ぼしているのだ。

仏教思想は、この阿頼耶識が輪廻転生をしている、つまり個人的無意識が生まれ変わっていると説くのだが、そもそも仏教では輪廻からの解脱が目指されるのであり、したがって表面的な意識を捨て去り阿頼耶識のままに振る舞うことができたとしても修行は完成しないことになる。
では、その先に目指されているものは何か。それは心の中の仏に目覚めることなのであるが、ここでいう心とは個々人の持つ“こころ”ではなく、個人を超えたところにある空(くう)である。空とは「0(ゼロ)」の概念だと思っていただければ良い。
仏教ではそもそもあらゆる存在は空より生起すると考える。この世界はホログラムのようなもので、一切は幻なんだよという感じだ。
まあ、ともかく阿頼耶識のさらに奥には空の世界が広がっているのだ。そして、その空の世界=仏(如来蔵)であると。
そしてその空の世界というのが、ユング的無意識(集合的無意識)とよく対応するのである。

「0(ゼロ)」とは何もないことではない

集合的無意識が空(くう)であるというのは少しイメージしづらいかもしれないので、少し説明を試みよう。
まず空(くう)とは「0(ゼロ)」であると述べたが、「 0(ゼロ)」であるということは、全く何もないということではない。「0(ゼロ)」であるというのは、無分別の状態、あるいは混沌である。言い換えれば、物と物との差が消失した時、「0(ゼロ)」は作り出される。そう、「0(ゼロ)」は作り出すことができるのだ。
算数で考えてみよう。まず5という数があって、そこから5を引いたとしよう。「5−5」だ。すると解は0になる。(5−5=0)
このように見ると、全く何もない状態になったように思えるが、現実的な場面で考えるとそうではないことがわかる。
ここにリンゴが5個あるとしよう。そして、リンゴを5つ食べる。やはり「5−5」である。するとやはり解は0になるのだが、リンゴが全くなくなったわけではない。リンゴは咀嚼されて胃に送られ、そのほかの食べ物と一緒に混じり合って消化され、その一部は吸収されその他は便となって排泄される。この時、リンゴはなくなったが、リンゴだったものはそのほかの食べ物との区別がなくなって内臓という無意識の領域へと隠伏することになる。これを大きな時間の流れの中で見てみれば、リンゴがリンゴであったのはほんの一時にすぎず、リンゴは空(くう)から生まれて空(くう)に還って行ったと見ることもできるのだ。
つまりリンゴがリンゴでないものとの区別をなくしたとき、「0(ゼロ)」の領域=集合的無意識が生まれ、そこに触れたということができる。人間に当てはめれば、「私」が「私以外」との区別がなくなったような意識に到達した時、人は集合的無意識に触れ得るのだ。


以上見てきたように、無意識には個人的無意識と集合的無意識の二種類があり、それらは矛盾することなく働いているのだ。
演技を通して無意識の表面化という境地を目指そうとした時、無意識というものを漠然と考えるよりも、これらの区別を踏まえてアプローチするべきであろう。
最初に述べた「忘我」と「恍惚」の状態はそれぞれ、個人的無意識と集合的無意識に対応するものである。
ではそれらが演技の場面でどのような特徴を持つのか次回説明していきたい。

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