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『演技と身体』Vol.9 関係的に考える

関係的に考える

関係で成り立っている世界

前回の記事で、感情とは環境に対する内臓反応であり、環境(物・人)との関係を表すものであると述べた。言い換えれば、感情とは自分の中で発生するものではなく物や人との間に立ち現れるものなのだ。
感情だけではない。人格・性格というものも、一般的にはその人に備わったものと語られがちだが、実は人との間に現れるものなのだ。好きな相手と嫌いな相手で態度が変わるのは誰にでも心当たりがあることだろう。だが、そんな大雑把な違いではなく、私たちは全ての人に対してそれぞれ微妙に異なる”私”を開示しているのだ。
また、生物の形や色や柄だってその生息環境との関係を表す。人間は地上で生きてゆくことを決めた時に猿と違う形に進化し始めたのだ。自然だけじゃない。ハサミの形は手の形との関係によって決まっている。
物理学者のカルロ・ロヴェッリは著書『世界は「関係」でできている』の中で大胆にも”現実は、対象物ではなく関係からなっているのだ”と述べている。存在するということは、誰か何かとの相互作用の中で関係的に成り立っており、それ自体がひとりでに自律して存在しているわけではないというのだ。世界にはモノなどなく、関係だけがある。

アフォーダンス理論

知覚心理学者のジェームズ・ギブソンが提唱するアフォーダンス理論によると、行為とは人が意志によって自発的に行うものではなく、物や環境から与えられる(アフォードされる)ものなのである。
岡本太郎の『坐ることを拒否する椅子』という作品はアフォーダンスを逆手にとった作品とも言える。人が椅子に座るという行為は、椅子の座面が人間に対して座ることを促すことによって成立している。椅子でなくとも、岩に腰掛けようとした時、普通尖った場所には座らない。平らなところが、人に座るという行為をアフォード(提供)している。だから人は自然と平らな場所に腰を下ろすのだが、この時人が自律的に座っているというよりは、椅子や岩の平らな面が人から座るという行為を引き出しているというべきなのだ。
何が言いたいかといえば、何気ない行為の一つをとってもそれは自分の中で完結的に遂行されているものではなく、関係の中で行われているものだということだ。

アフォーダンスは相互的に起こる

このアフォーダンス理論を少し拡大して解釈してみよう。
まずアフォーダンスというのは物から人に対して行われているだけでなく、人と物の間で相互に行われるものであるということができそうだ。
再びカルロ・ロヴェッリを引き合いに出すと、そもそも物は存在自体が他の物や人によって与えられている。一本の木があったとして、ある人たちとの関係においてはそれはただの木であっても、別の人たちにとっては神として存在しているかもしれない。少年の目には秘密基地として存在し、鳥にとっては家である。この時、木それ自体は、見る者のパースペクティブ(視点)によって引出される属性が異なり、存在の意味を変える。存在が見る者との関係によって決まっているのだ。
(ちなみにこの時、木を木として見る視点だけが真実でありそれ以外の見方は嘘か比喩であると考えるのは誤っている。木が木であるということと、神である、秘密基地である、家であるということは同等に真実であり、嘘でもある。そのうちどれか一つの視点だけを真実として採用するのは間違っているし、自然科学に反するものがあったとしても、そもそも自然科学だけが真理として是認される道理もないのだ。)
この相互性から、アフォーダンスは固定的な関係ではなく、人や状況によって変化するものなのだということがわかる。椅子を見て全員が座ろうとするとは限らず、その上に立つ者もいるかもしれないし、それをテーブルのようにして使う者もいるかもしれない。
さらにアフォーダンスは人と人との間でも起こるのではないだろうか。
妙に人をイラつかせる人もいれば、一緒にいてほんわかしてしまう人もいるが、この時人は相手の感情・態度・行為を相互にアフォードし合っていると言える。だから、もしあなたが「自分はいい人たちに囲まれているな」と感じているなら、それはあなたがいい人であり、周囲の人たちから良い面を引き出しているからである。そしてこの意味においても、感情や人格はその人自体に備わっているのではなく、人と人との間にあるものなのだということがわかる。

「歩く」のではなく、「近づく/遠ざかる」

さて、ここまでの話を踏まえて、演技について考えてみよう。
まず、あらゆる動きは「私が」ではなく「何かに」という語法において、つまり何かとの関係において行われるべきである。例えば「私が歩く」という動作は「何かに近づく」「何かから遠ざかる」という動作に置き換えられなければならない。「私が歩く」と言う時、その行為は自分の中で完結してしまうが、「何かに近づく」「何かから遠ざかる」と考えることによって同じ動作でも関係的なものとして周囲に開かれる。そのようにして自分の動きや位置は常に周りの何か・誰かとの関係の中で決まるものでなければならない。そうすることで、相手や物との距離が、第三者である観客の目にも見える実体的なものになるのだ。

”動く”のではなく”動かされる”

次に人格や性格は固定的なものではなく、周囲との相互的なアフォーダンスの中で関係的に現れるものであるという点について考えてみよう。脚本を読んで、自分が演じる役の性格を想像するのが普通かと思うが、それだけでは不十分でありそれが誰に対して、どんな出来事に対してであるのかをよく考える必要がある。また、その相手自体も脚本を読んだ時と実際に誰かが演じた時とでは変化する。
そこで、実際に演じる時に留意すべきことは、自分が演じる役や演技を固定的に捉えてしまってはいけないということだ。演技をする場で、周囲の人や物からアフォードされ、またそれらにアフォードし返す。この相互交通が大切だ。つまり、”動く”のではなく”動かされる”のである。そして動かされたその動きがまた相手を動かす。
自分のプランに強くこだわる人は、この交通が閉じていて、自分が動かされる前に勝手に動いてしまう。するとタイミングが不自然で段取りっぽくなってしまう。

意図ではなく注意

では、自分が”動かされる”ためにはどうするのか。それは”注意を払う”ことである。
人類学者のティム・インゴルドは、人の行為の性質を迷路と迷宮を進む違いに たとえて述べている。迷路はスタートからゴールという点から点への移動であり、そこでは意図に基づいて行為が行われる。よそ見は禁物であり、目的に合った手がかりを見つけ、効率的に判断することが求められる。行き止まりは目的からの後退として受け取られる。
他方、迷宮においては探索そのものが目的であり、その移動は蛇行した線を描く。行為は意図(観念)ではなく注意(知覚)に基づいてなされる。迷宮における探索は、自分を引きつける物への注意に基づいて行われるが、それは決して気ままなものではなく、ハンターが森で獲物を追う時に、足跡や糞を注意深く検分し、獣の気配に耳をそばだてるような慎重さと集中力を要するものである。そして、そうしたものたちに引き寄せられる(動かされる)ことによって行為はなされるのである。
演技とは単に台本を再現するためのものではない。単にストーリーを展開させるための点から点への移動に陥らずに、蛇行した線を描きその中で相手や周囲に対してよく注意を払うことによって演技に味わいが生まれるのではないだろうか。

観客にアフォードする

演技における関係性というのは、芝居の中の世界の物や人との間だけのものではない。役者は観客・カメラに対しても関係性を結んで演じなければならない。観客・カメラは目である。その目に対して、沈黙、動き、表情などで視線の動きや注目をアフォードするのだ。

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