見出し画像

『演技と身体』Vol.38 無意識の話⑥ 言語的無意識〜イメージを重ねる〜

無意識の話⑥ 言語的無意識〜イメージを重ねる〜

前回は、言語の構造を意識と結びつきの深い〈統語法〉的な働き(文法)と、無意識的な機能である〈喩〉的な働き(比喩)の二つに分けて考え、無意識の働きを引き出すためには〈統語法〉的な機能を低下させるということと、〈喩〉的な機能を強調することの両方向からのアプローチが必要だということを述べて終わった。
今回は、その具体的な方法を検討する。

言葉を無意味化する

〈統語法〉とは、言語の《意味レベル》で機能している。それに対して〈喩〉は、言語の《イメージレベル》での働きである。
日常では、《意味》と《イメージ》が補い合ってメッセージが伝達される。
すると、〈統語法〉的な機能を低下させるとは、《意味》の側面を削ぎ落としていく、いわば言葉を《無意味化》していく作業だと言える。
言葉が《無意味化》するというのはどのような場合だろうか。
最も身近な例は「あいさつ言葉」である。“おはよう”と言うとき、その言葉の意味を考えて言う者はいない。こうしたあいさつは、言葉に意味があってはいけない。言葉が無意味化することによって、互いが“響き”だけを交換し合うのがあいさつである。意味を排除することによって、相手の声の調子だけを受け取る。そうやって相手の状態や機嫌や好意や敵意を汲み取るところにあいさつの効用はある。
「あいさつ言葉」にも元々は意味があったのだろう。しかし、それが繰り返して使われてゆくうちに、意味は忘れ去られて機能だけが残るのだ。
セリフを反復することでそれを無意識に処理できるようになることは第33回の記事でも説明したが、それを言語的な側面から捉え直すと、セリフの意味の層(=〈統語法〉的側面)を自分の中で希薄化して、イメージの層(=〈喩〉的側面)や“響き”を前景に浮かび上がらせるということになる。
さらに演出的に言えば、同じ言葉を劇中で何度も繰り返すことによって、次第に言語は意味作用を失い、イメージや響きだけを伝えるようになる。それはすなわち観客の無意識に対する働きかけなのである。
以上、繰り返しによって言葉を《無意味化》するというのが、〈統語法的〉な機能を低下させて、言語の意識的な働きを弱める一つの方法である。

日常言語での〈喩〉の働き

もう一つには、言語の無意識的な機能である〈喩〉的な働きを強調するという方向がある。
〈喩〉的な働きというのは、前回も説明したように、[メタファー(隠喩)]や[メトニミー(換喩)]に最もよく表れるが、日常の言語でも欠かせない機能である。
例えば、
「花子は太郎の母親である」
という文と
「太郎は花子の母親である」
という文を比べてみよう。
文法上はどちらも間違っていないはずなのに、前者の文にはない違和感を後者の文には感じるのではないだろうか。
「花子」というと、多くの人は女性を思い浮かべる。そして「太郎」と言ったら男性を思い浮かべる。そして「母親」とは女性を指す。
「花子は太郎の母親である」という文を読むとき、私たちは「花子」という言葉と「母親」という言葉から共通性(女性である)を取り出して両者を重ね合わせることによって文意を理解している。ところが、その共通性が「太郎」と「母親」には見出せないために、重ね合わせが困難になるのだ。
そしてこの[重ね合わせ]は[メタファー(隠喩)]で見た“置き換え”と同じ機能によるものなのである。
だから、言語の持つ〈喩〉的な機能というのは必ずしも詩的な言語でなくても働くものなのである。

〈喩〉の  詩的機能

とはいえ、〈喩〉的機能が最も強く表れるのが韻文においてであることは間違いない。
短歌には“縁語”という技法がある。

長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは 物をこそ思へ (待賢門院堀河)

縁語とは、ある言葉から連想されるイメージを歌の中に散りばめる技法だ。上に引いた歌の場合、「長い」と「乱れる」が「髪」という言葉の縁語に当たる。
歌の意味がよくわからない場合でも、なんとなく長い黒髪が乱れるようなイメージが浮かぶのではないだろうか。そして、実際に短歌においては、歌の意味がわかることよりもこうしたイメージを受け取ることの方が大切なのだと思う。
また、僕は能が好きでしばし観に行くのだが、座席に字幕が表示されるような場合でも、決してそれを見ない。能は昔の言葉で謡われる上に特殊な抑揚がつくのでので、聞いていても何を言っているのかよくわからない。だが、よく意味のわからない言葉の中から断片的なイメージが浮かび上がってくることがある。

夏衣 薄き契りは忌まわしや 君が命は長き夜の 月にはとても寝られぬに いざいざ衣 打たうよ
能『砧』

上に引いたのは能『砧』の詞章の一部である。実際に舞台で謡われるの聴いていると、「夏衣」「薄き」「忌まわし」「長き夜」という断片的な単語だけが聞き取れるのである。しかし、不思議なことに、こうした言葉のイメージによって、暑い夏の夜に考え込んで眠れなくなる情景やそこに込められた恨めしさがありありと想起される。これもまた言語の〈喩〉的な機能が強く働いている例である。

観客のイメージを刺激する

さて、ここまでで、言語の〈喩〉的な機能が通常の言語使用の中でも働いていること、そしてそれが言葉の連想的な働きによって前景化されることがわかった。
では、これらを踏まえて演技の中で活かす方法はあるのだろうか。
演出レベルで言えば、セリフの中にこうした縁語的な言葉の配置を予めしておくことができる。
役者の心がけとしてできそうなこととしては、抑揚や強勢によって縁語的な関係にある言葉を際立たせるという方法があるかもしれない。
「花子は太郎の母親だ」と言う時、説明としてわかりやすく言うならば「太郎の母親」の部分を強調して言うべきだろう。だが、もしより感情的な場面なのだとしたら、「花子」と「母親」の二語が際立つような言い方をした方が良い。すると、聞いている人にとって「花子」と「母親」が、〈意味レベル〉ではなくて〈イメージレベル〉で重なって想起されることになり、言葉の表面的な意味を越えた受け取りが可能になる。
場面にもよるだろうが、時には意味の正確な伝達よりもこうしたイメージの想起を重視するような台詞回しが観客の無意識によく働くこともあるのではないだろうか。

今回は、言語構造の中でどこに注目するかという観点から考えたが、そもそも言語構造を抜け出ることで無意識にアプローチする方法はないだろうか。
次回、考えてみたいと思う。



※【公演情報】10/27~30 初の舞台演出作品『相対性家族』が上演されます。


------------------------------
「うちの夫、わたしから見たらスローモーションなの」 
「うちの次男ときたら、まるで逆再生しているみたいだ」 
「。よだり送早らた見らか僕、はんさ母」
------------------------------
劇団一の会
Vol.52  相対性家族 
作・演出:高山康平
@ワンズスタジオ 
出演: 坂口候一  熊谷ニーナ  玉木美保子  川村昂志  粂川雄大 
桜庭啓 
大平原也(A) 梅田脩平(B)

10月 27㈭19時(A) 
  28㈮14時(B)・19時(A)
  29㈯13時(B)・18時(B)
  30㈰ 13時(B)

ご予約: https://www.quartet-online.net/ticket/sotaisei?m=0ujfaee



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?