見出し画像

『演技と身体』Vol.47 身体意識のサイズと粒度

身体意識のサイズと粒度

断片的な身体意識と統合された身体意識

普段私たちが生活の中で自分の身体を意識する時間は案外少ないかもしれない。身体が平常運転をしているうちは特に身体を意識する必要はないからだ。しかし、全く意識していないとも言い切れないように思う。
例えば今ここに書く言葉を頭で整理していざタイプしようと右手を上げたほんの一瞬、意識は右手にあったように思う。0.5秒にも満たない短い時間であったとはいえ確かに右手に注意が向いたと思う。
これを意識と呼べるかどうかは意識の定義によるところなので議論しないが、身体感覚とはまずこうした断片的で瞬間的な身体意識によって成り立っているのだと思う。
だがそれだけでは統合された“私”にはなり得ない。今、左手でコーヒーカップを手に持って口に運んでも、それに合わせて口が開かなければコーヒーは飲めない。断片的な身体意識が連合してもう一つ大きな意識に統合されている。そしてこの時、断片的な身体性(手、口)は捨象されている。
私たちの普段の意識に上るのはこうした統合された意識であるわけだが、この時身体意識は、捨象されてこそいるが、間接的に働いているとも言えるわけである。

「サイズ」と「粒度」

さてそのような身体意識であるが、演技などの身体表現と関連させて考えた時、「サイズ」と「粒度」という二つの観点が考えられる。
まず身体意識の「サイズ」であるが、普通に生活していても実は全身に意識が届いているとは言い難い。通常、人の意識が行き届いているのは体の前面のしかも手の届く範囲だけではないだろうか。
試しに目を閉じて、腕や胸や顔の表面の近くに手をかざしてみると、直接触れていなくてもその存在を強く感じることができる。ところがそれを脚の方や背中の方に移してみると、その感覚が微弱になっていくのがわかる。このことはなぜ私たちが段差につまづいたりタンスの角に小指をぶつけたりするかを考えてみてもよくわかる。
つまり、私たちが普段身体で最もよく制御できている範囲は体の前面の手の届く範囲に限られており、その他の範囲はそれに準ずるレベルでの制御に留まっているのである。

身体意識の「サイズ」を拡大する

これは普段の生活では特に問題にならないのだが、表現者にとっては重大な問題である。カメラには全身が映っているのに、主に上半身までしか制御ができていないことになるのだ。
そこで、表現の場に応じて身体意識のサイズを拡大したり縮小したりすることが必要になる。
映像であればまず当然ながら、撮っている画のサイズが問題になる。バストサイズであれば普段の身体意識で事足りるが、フルフィギュア(全身サイズの画)〜ニーショットであれば意識のサイズを全身に拡大する必要がある。さらに引きのショットとなれば場合によってはもっと大きく身体意識を拡大する必要がある。
人間の身体意識は人間の身体に止まらない。熟練したドライバーは車の車体にまで自分の身体意識が拡大しているし、テニス選手ならテニスラケットをもはや自分の身体の一部のように扱うことができる。
また、誰にでもペリパーソナルスペースというものがある。これは通常、両手を広げた範囲であると言われるが、この範囲に自分の好きな人が入ってくれば触れていなくてもドキドキするし、嫌いな人が入ってきたら触れられていなくても不快感を覚える。満員電車が不快な理由もこれで説明できる。
引き画の場合や動きにダイナミズムが必要な場合には身体意識のサイズを全身よりもさらに拡大できると、自然と動きに大きさが生まれ、表現が際立つだろう。

身体意識の「サイズ」の縮小と「粒度」

逆にアップショットなどの場合は、身体意識のサイズを通常よりも縮小して演じた方が良いだろう。手であれば、全身の意識を手のサイズにまで縮小し、脳も心臓もそこにあるかのように振る舞うのが良い。
というのも、ここで身体意識の「粒度」の話に移るのだが、身体意識の「粒度」は通常、身体意識の「サイズ」が小さくなるにつれて細かくなってゆくからだ。
例えば、広い引き画の芝居においては手の1ミリ単位での動きというのはあまり意味を持たないが、クロースアップのショットであれば1ミリ単位の動きの変化に対する感度が必要になる。そうした動きの大きさに対する感度をここでは「粒度」と呼んでいる。
身体意識の「粒度」が身体意識の「サイズ」の大きさと比例関係にあるというのは感覚としてわかりやすい。身体意識の「サイズ」が大きければ「粒度」は粗くなり、「サイズ」が小さくなれば「粒度」は細かくなる。
だが、それでも「サイズ」と「粒度」を別のレイヤーとして考えるのは、その比例関係があくまで傾向でしかなく、絶対のものではないと思うからだ。
つまり、熟練していけば、「粒度」を細かく保ったまま「サイズ」を全身に拡大して演じるということもできるのだ。

身体意識と表現

こうしたことを感覚に落とし込んでいくことができれば、例えば同一サイズの画の中で、意識のサイズや粒度の変化を感情との連関で用いることもできるだろう。意識と粒度を絞っていって映っている中で身体のある一部だけに注目させていくこともできるし、意識が拡大していくのに伴ってある感情が大きくなっていくことを表現することだってできるだろう。
ここまでは主に映像の演技の話であったが、舞台でもこの重要性は変わらない。舞台では常に全身を観客に晒しているわけだが、だからこそどこに注目させるかが重要となる。役者が身体意識をある一点に縮小させていけば観客はそれに同調する形で視点をそこに集める。もちろん会場の規模にもよるのだが、舞台だからといって必ずしも大きく動かなければいけないことはない。

身体意識と無意識

身体意識の「サイズ」を大きく保ったまま動くことや「粒度」を細かく保ったままでいることはその分、脳のリソースを使う。だから必要に応じて変化させることが大切だと思う。
他方で、脳のリソースを身体意識に注ぐことによって余計なことを考えずにいられるのではないかとも思う。
演技が無意識の解放なのだという立場を取れば、意識のリソースをできるだけ身体に割くことは頭の中から言語的思考を後退させて無意識の表面化を助けることになるかもしれない。
これは僕の演技理論の中核となる考え方で、意識をあくまで身体に注ぐことで内臓反応などの無意識の活動が大きくなり、自分の中で意識と無意識の対決が起きるのだ。(詳しくはVol.21離見の見を参照)

身体意識の「サイズ」を広げるには

身体意識の「サイズ」を広げるのは案外難しい。まず、できるだけ普段から足先まで感覚を行き届かせるように意識をすれば良いのだが、その状態を保つのはなかなか大変だ。一つには足指のトレーニングが有効だと思われる。
足指の感覚が活性化すれば、股関節も連動して活性化するし、足指の感度が高まれば自然とそこに意識が向くようになっていくものだ。
冒頭でも述べた通り、身体意識というのは断片的な身体意識を連合させることによって使えるようになってくる。郡司ぺギオ幸夫によれば、身体性は「または」から「かつ」への変化によって形成されるのだという。このことは古典芸能などの型をやってみるとよくわかるのだが、初めのうちは足を意識すれば手が疎かになり、手を意識すれば足が疎かになってしまう。この時、意識は「足または手」に向いているが、慣れてくるとこの意識は「足かつ手」に向くようになる。この時初めて身体意識の連合ができるようになっているのだと言えるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?