觀ノ会『道成寺』 感想文
国立能楽堂にて能『道成寺』シテ・友枝雄人(喜多流)を観てきた。
『道成寺』を生で観たのは初めてだったのだが、言葉にならない大きな感動に飲まれた。
登竜門と言われている曲だが、シテにとって特別な舞台なんだなという感じがすごくした。出演者も多く、大掛かりな舞台装置もあるため舞台上には総勢30名もの人がいるのだが、少し大袈裟に言えばそれらの人がシテ一人のためにそこにいると言っても過言ではないのだ。実際、シテが喋るところや乱拍子ではそれ以外のほとんどの人は舞台上にいても全く動かない。実に観客も含めると300人を超える人がシテ一人のの一挙手一投足に注目する訳で、それだけ多くの人の緊張を一身に背負うのだ。
また、この曲は歴史的変遷の中で物語の説明がかなり省かれているようで、一見意味をなさない詞章があったりする。だがそれをどう解釈し、そこにどういうニュアンスを込めるか、演技者の想いが強く表れる曲だ。
以下、曲の流れに沿って感想を述べる。
ワキが登場した後、鐘が運ばれ、舞台上に吊り上げられる。そして、ワキに女人禁制の旨を承った能力が結界を張るようにゆっくりと舞台の端を歩いて回ると、にわかに静けさに包まれて緊張が高まる。そこへシテの女が登場する。
まず立ち姿がとても良かった。静かでサビた雰囲気なのだが僅かに前傾していることが柱との関係でわかり、ただならぬ想いを秘めているのが伝わってくる。
そして乱拍子。 乱拍子は、シテが静寂の中で時々鳴る小鼓の音と掛け声、わずかな笛だけに合わせて舞う舞のこと。20分ほどの間、時空間を占めるのは静寂で、時折その静寂の深さを測るかのように小鼓が鳴り、シテがわずかに足を動かす。舞台上の空気が張り詰め、観客も息を呑む。
この乱拍子に入る直前に「花の外には松ばかり」という言葉が二度繰り返される。「松」には「待つ」が掛けられている。一度目は抑制の効いた感じで、だが二度目はそれに反発するように怨めしさが言葉に滲む。
言葉は想いの噴火口である。言葉によって空いた穴から、女の燃えたぎる怨念が現れ出てくる。
この言葉のニュアンスをどう表現するかによって、乱拍子の部分が舞台全体の中で持つ意味は大きく変わるのだろう。この静寂と僅かな動きで占められた20分は長いだろうか?いや、そんなことはない。この20分には数百年の沈黙が凝縮されているのだ。僕にはそう見えた。
女の正体は、数百年前、想いを寄せた僧に裏切られた娘の執心が変身した毒蛇なのだが、その時道成寺の鐘に隠れた僧を諸共に焼き尽くした蛇は以来数百年の間この寺の鐘が再興するのを待っていた。さながら獲物を狙う蛇のごとく静かに少しずつ獲物(鐘)に近づきながら。乱拍子の足遣いはそれを象徴する。
乱拍子の終盤、道成寺の成り立ちを口にする。内容は女と関係ないが、もはや口にする言葉のすべてに積年の執心が乗っかってくる。内容が関係ないだけに想いが却って純粋さを帯び、それがトリガーとなって急の舞というテンポの速い激しい舞が始まる。一気に獲物に飛びつくように、想いが噴火するように。
他の囃子も加わって沈黙が破れると舞台は一気に盛り上がりを見せる。それまでの静寂とのコントラストに唖然としている間に女は鐘の中に飛び込み、鐘が落ちる。抽象的なイメージの世界が弾けるように覚めて、ワキによって鐘と毒蛇の因縁が語られる。
印象的だったのは、急の舞の時に荒っぽくならないような心遣いがシテから感じられたことだ。速いテンポに合わせて思い切り動くこともできたはずだが優美さを失うまいという想いや役の一貫性を保とうという気遣いを感じた。
そしてワキの僧たちがお経を唱えると再び鐘が上がり、中から女の正体である蛇が出てくる。鐘から追い立てられた蛇は、剥き出しになった執心でもあり、僧と闘う姿は行き場をなくして苦しんでいるようでもあった。蛇は、遂に僧たちに祈り伏せられ日高川に飛び込んで消え去る。
ここも蛇の恐ろしさを本意とするか想いの方を本意とするかで演じ方が大きく変わるところなのではないかと思う。 恐ろしさを本意とするなら蛇の写実性に重きを置くことになるし、想いを本意とするなら蛇の動きと心の動きをうまく合一しなければいけなくなる。
今回、シテは蛇の動きと心の動きを合一させる道を選択していたように感じられた。ここでも、力強さを捨てて優美さを取り能が荒っぽくならないよう心がけていたように思う。それを物足りなく思う人もいたかもしれないが、僕には剥き出しの感情の行き場のない苦しみが感じられて非常にグッときた。
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