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『演技と身体』Vol.39 無意識の話⑦ 「私ではなく、私でなくもない」

無意識の話⑦ 「私ではなく、私でなくもない」

前回までは言語の仕組みを手がかりにして無意識の働きについて考察したが、今回は、そもそも言語構造外について考えることができるのかということをテーマにしてみたい。

自他の区別のない世界

簡単におさらいしておくと、無意識は個人的無意識と集合的無意識の二層構造になっているのであった。Vol.35無意識の話③で説明した通り、個人的無意識というのは個人の脳の働きによるものであり、それは言語構造と相似形をなしているところがある。したがって、言語構造を理解することによってその働きについてもある程度知ることができるというのが前回までの話であった。
だが、集合的無意識(すなわち「恍惚」状態)に接近しようとするならば、それだけでは不十分だ。
集合的無意識とは、個人を超えて自他の区別がなくなった無分別の領域であり、言語構造では捉えることのできない世界なのであった。いわば、言語構造が崩壊した世界なのである。
集合的無意識の世界では言語は意味を持たない。ここでは「私が魚を食べる」という文と「魚が私を食べる」という文は意味の違いを持たないのだ。
なぜなら、そもそも私と魚の区別が消失しているからだ。私は、「私であり同時に魚でもある」あるいは、「私ではなく、私でなくもない」「魚ではなく、魚でなくもない」のだ。
訳がわからないと思ったならそれは正しい感覚だ。こうして言語で考えてみても訳がわからないのだ。しかし、上のような状態というのは実際にありうる。

「私ではない」

これまで何度か引いてきた例だが、シベリアの狩猟民・ユカギール人たちは森に入る時にエルク(鹿の一種)の毛皮をまとい、エルクの足音・鳴き声を真似し、エルクの思考を辿る。そして狩りの間、人間の言葉は一切話されない。エルクに人間だとバレてはいけないからだ。そうやって、エルクに自分を仲間だと思わせ、エルクが警戒を解いたところを銃で撃ち抜く。
これは簡単なことではない。エルクが警戒を解いてこちらに近づいてくる時、狩人にはエルクがなんと美しい人間の女の姿をして見えるというのだ。
つまり、エルクの側には人間の姿がエルクに見えていて、人間の側にはエルクの姿が人間に見えている。
視点(パースペクティブ)の違いこそあれ、エルクと人間は対称的な関係になっている。狩りとは、一方的な搾取ではなく、一度自他の区別(ここでは種の区別)の消失した無分別の世界に浸り切って、そこからかろうじてまた分別のある世界に戻ってくる行為なのだ。
この時、注目したいのが、彼らが狩りの間、人間の言葉を話さないという点だ。つまり普段の言語構造から抜け出た特別な状態にいるのだが、全身エルクを模した格好をした彼らはもはやほとんどエルクであり、しかも自分の状態を意味づける言語も放棄してしまっている。この時彼らはもはや「私ではない」状態なのだ。
「私」が消失した世界こそが、集合的無意識の世界である。「私」と「あなた」が分別を失い、溶け合う世界。人間とエルクが種の区別を失った世界。エヴァンゲリオンの人類補完計画とはまさに全人類が集合的無意識の世界に溶け入った状態を目指すものだ。あるいは手塚治虫『火の鳥』で言われるコスモゾーンもまた集合的無意識世界のことだろう。

「私でなくもない」


だとすると、集合的無意識の世界に入ることは個人の死を意味するということになるではないか。それはまずい。
ここでミソなのが、「私ではなく、私でなくもない」という部分なのだ。
狩人たちは、エルクの姿や行動を模倣することで限りなくエルクに成りいるのだが、だからといって完全にエルクに変身してしまうわけではない。彼らは手に銃を持っているし、彼らの内臓は人間の内臓なのだ。
Vol.31の記事でも説明したが、内臓感覚(及びそれをモニターする自律神経の働き)こそが自己意識を成す最も基礎的な部分なのであり、言語的意味づけによるアイデンティティというのは実は二次的なものなのだ
つまり、彼らは言語構造から完全に抜け出ることによって自他の区別、種の区別のなくなった集合的無意識の世界に片足を突っ込みながらも、もう片方の足は非言語的な自己感覚を保っているのである。
だから彼らは「私ではなく、私でなくもない」というパラドキシカルな状態でいることが可能なのだ。

芸術がもたらす深い感覚

このように自己感覚(分別)を保ったまま集合的無意識(無分別)に片足を突っ込んだ状態は大乗仏教で言う「事事無碍法界」にも一致する。
「事事無碍法界」とは、すべての物事が分別を保ったまま相互に融通無碍に繋がり合い、作用し合う在り方である。
芸術作品が鑑賞者にもたらす最も深い感覚というのがこの「事事無碍法界」に他ならない。
この間、友人との会話の中で面白いことを発見した。物心つく前の年齢の時に岡本太郎の作品が大好きだった子供が、自他の区別がつく年齢に達した途端に逆にそれらを嫌悪するようになるという傾向があるのだ。
自他の区別がつく以前の子供にとっては岡本太郎の芸術作品は非常に馴染み深いものなのだろう。岡本太郎の作品には、言葉で名付けようのないぐちゃっとした感情がぶちまけられている。
大人になって、それをマジマジと眺めていると、何やら不安な気分になってくる。しかし、その不安というのは言語レベルにおける自己意識が溶け出していく感覚なのではないかと思う。だから、その不安を越えると、深いところで作品と自分とが繋がったような感覚に到達するのだ。そして、物心つく前の子供というのはそもそも自己に対する言語的な意味付けがなされていないために、そうした不安を経験せずに直に作品との繋がりに入っていけるのだ。
この感覚は、あらゆる優れた芸術作品との間で起こる現象だ。そして、演技が究極的に目指す境地というのも、相手や観客と「事事無碍」の状態に入っていったところにある。

矮小な自我を抜け出る

芸術とは矮小な自我を抜け出て生命に普遍的な無意識世界への回路を開くところに本質がある。だから、作家や役者の自己表現に止まっているうちはどうしたってショボい表現になってしまう。芸術家は人類や生命を代表して作品を作らなければいけないのだ。
商業映画ではあるが、同じバットマン映画であるクリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』(2008)とマット・リーヴス監督『ザ・バットマン』(2022)を比較すると、その射程の違いがよくわかる。
バットマンの魅力は、正義と悪の違いが相対的なものでしかないという苦悩がつきまとう中で、それでも“今ここ”で誰かの命を守るために戦わなくてはいけないという切実さにある。悪党にも道理があり、しかも道理だけを取り出せば正義とほとんど区別がつかない。つまり、正義と悪とが、その根っこのところでは繋がっていて、同じ行動原理に基づいているのだ。
すると、バットマン映画では、正義と悪が繋がってしまうその根っこの深さが問題になってくるのではないかと思う。
『ザ・バットマン』では、主人公・ブルース=ウェインと悪役・リドラーとが持つ共通部分として、権力や汚職への怒り・恨みが挙げられる。しかし、それが行動に移る動機が非常に個人的なところに止まっている。ざっくり言えばどちらも過去の家庭問題を引きずり続けている。いわばエディプス・コンプレックスのこじれである。
エディプス・コンプレックスはフロイトが熱心に研究した領域でもあり、つまり個人的無意識の領域である。
だから、『ザ・バットマン』は個人的無意識のレベルで正義と悪とがたまたま繋がっていたに過ぎない。
他方『ダークナイト』では、ヒース=レジャーが演じた悪役・ジョーカーの根の深さが際立っていた。これはもちろんジョーカーというキャラクターの持つ特性でもあるのだが、ジョーカーが時折話す個人的エピソードは全てデタラメであり、それでいてどこか説得力がある。ジョーカーは一貫して人格が分裂しているのだが、それによってジョーカーは家庭問題という個人的な領域を越え出て、社会の中で悪党にならざるを得なかった多くの人々の混合体のような存在に見えてくる。つまりジョーカーは個人を超え出ている。
さらにジョーカーはバットマンの矮小な自我を弄ぶのだ。バットマンは個人的な情念に止まって行動しているうちは決してジョーカーには勝てない。そしてそのようにして炙り出されたバットマンの偽善は市民全般が持つ偽善とも一致する。そこでバットマンは市民の意識のレベルでは正義であることをやめて無意識レベルに残っている正義を信じて行動することになるのだが、集合的無意識のレベルでは正義と悪は区別がなくなる。つまり、バットマンとジョーカーは完全な鏡像関係に置かれることになる。このレベルで繋がると、バットマンにとってジョーカーを殺すことは自分を殺すこととほとんど変わりがなくなってくる。
「私の経験」や「私の想い」は、それ自体が力や魅力を持つものであることには違いないが、それだけでは不十分なのだ。

世界を信頼してみる

ここまで見てくると、「役に自分を持ち込むべきか」という問いにも必然的に答えが出る。ずばり答えはこうだ。
「ナンセンス!」
この問いはそもそもナンセンスなのだ。
一つには、役を個人的な経験・体験と結びつけて理解していくというのは自然なことであるし必要なプロセスではあるが、それだけでは不十分なのだということが言える。
なぜ不十分なのかと言えば、自分が理解できているところで止まっているからである。自分の体験と結びつけることは役に入る端緒に過ぎず、自分と役との結びつきをそのような個人的なレベルに留めてしまっては足りないのだ。
その役に対して理解できない部分が残るなら、そこに潜っていくべきだし、そのプロセスを通じて役者自身が変容していかなくてはいけない。変容とは無意識の目覚めなのである
もう一つには、「自分」というものに対する誤認がある。ユカギール人の例の中でも説明した通り、過去の経験などを元に形成された「自分」のアイデンティティというの二次的なものに過ぎない。自分という時、それがまず指すのは「“今ここ”で息をしている私」のことであり、それは過去の経験や記憶とは何の関係もない。“今ここ”でうごめく内臓感覚こそが自分という感覚を支えるものなのである。
「役に自分を持ち込むべきか」という時に言われている「自分」とはいわば「イメージとしての自分」に過ぎない。すると、この問いは「役のイメージ」と「自分のイメージ」という二つのイメージの整合性の問題でしかないのである。
そして「イメージとしての自分」=意識レベルの自己は役を通して変容すべきであり、「“今ここ”でうごめく内臓感覚に支えられた自分」=無意識レベルの自己は消し去りようがない。
役者だけでなく多くの人が「自分」にこだわるのはそもそも自我が脆弱だからである。そしてその自我の脆弱性は、無意識との繋がりの貧困に起因するのではないかと思う。
無意識を信頼するということは世界を信頼するということに他ならない。確かにここ数年の人間たちを見ているとにわかには信頼しがたいところもあるが、人間という枠さえ越え出て生命を信頼してみるのはどうだろうか。そしてそこから、生命を代表して“人類がまだ終っちゃいない”ことを芸術家として証明して見せるのだ。

今回は言語構造(個人的無意識レベル)を超えた世界についての話が長くなってしまった。次回こそ、集合的無意識の表面化である「恍惚」状態に接近するための方法を考えてみたい。


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