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【2011.3.11から10年】僕は加賀市で小水力発電に取り組む〜創りたい未来をこの手で手繰り寄せる〜

エピローグ

2011年3月11日 14時46分

教室にある黒板の、粉受けに置いてあった丸時計が、ゆっくりと、左右に揺れた。
誰も触っていないはずなのに。

授業中でもない教室。
誰かいたような気もするし、誰もいなかったような気もする。
兎にも角にも、揺れる丸時計が妙に不気味だった。
揺れる時計が、遠く離れた東北で起こった地震によるものだと知るのは、帰宅してからだった。

帰宅すると、津波の様子がテレビで放送されていた。
残酷な絵だ。
目を背けたくなった。
でも、これが現実だ。
大勢の方々が、今まさに、津波の中へと消えていく様が、テレビという画面を介した光景として広がっていた。

変わらぬ日常が流れる、名古屋。
ニュースで報道される東北の様子。
あまりにも違いすぎるそれぞれの日常に、僕はどこか現実感のなさを感じていた。
昨日まで普通に流れていた日常が、ごそっと流されてしまったのだから。

加えて、福島第一原発でのメルトダウン発生などで、放射性物質が放出される原発事故まで起きた。
広島長崎の原爆やチェルノブイリの事故が、頭をよぎった。
人間のみならず、自然にまで、長く影響を残す問題になるのではないか、と。

案の定、そうなりそうな予感を感じ、各所で原発と津波が議論されるようになった。
解決や復興の目処は全く見えなかったが、唯一確かなのは、甚大な被害を受けたということ。
あまりにも多くの方が亡くなり、そして行方不明者まで出ている。
放射性物質の汚染に対しての影響も不明で、悪影響を怖がる人たちが大勢いるということも確かだった。

震災から6年経ったとある夏の日

時は経ち、2017年8月18日

あの日、テレビで見た映像の場所へと足を運んだ。
人生で初めての東北。
福島第一原発に足を運んだ。

震災から6年の月日が経ったということで、どうなっているのかということも気になったが、その当時も帰宅困難地域のままで、震災当時のままの状態だった。
窓ガラスは割れ、建物も崩れ落ちているものが、そのまま残っているのだ。
とても衝撃的だった。
その中でも最も衝撃的だったのは、福島第一原発内の巨大なタンクが、恐らく津波の影響で捩れていたこと。
映像で、人が飲み込まれていく様子は見ていたものの、その本当の力強さは多分あまりちゃんとわかっていなかった。
しかし、そのタンクを見た時に、その威力の一部を目の前で感じた。
僕がそのタンクを殴れば、僕の拳が壊れてしまうだろう。
そんなタンクを、捩れさせるほどの威力の津波に飲み込まれれば、当然生き残ることは難しい。
それほどまでに、大きなダメージだったということだろう。

地震、津波、そして原発事故。
平成史上最も大きな災害。
これを二度と繰り返さないということは、それを見学した僕の中にも強く根付くようになった。

震災から10年〜今僕は何をするのか〜

僕は今、石川県加賀市という、福井県との県境の温泉地で小水力発電に取り組んでいる。
あの日から10年。
まちへの痕跡のみならず、人々の心の中に大きな傷を残した災害を二度と繰り返さぬように。

原発は、人々に安定した電力を供給する存在でありながら、自分たちの平和を脅かす存在にもなり得る。
それを、僕たちはチェルノブイリや福島第一原発を通してよくよく体験した。

この先も、人類が同じように原発を選び続ければ、同じような事故がいつまたどこで起きてもおかしくない。

ドイツは、2011年の福島第一原発の影響を受けて、原発を廃止する方針に決めた。
2022年末には原発ゼロを目指し、再生可能エネルギーへと舵を切っている。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR09BBV0Z00C21A3000000/

欧州各国では、ベルギーが2025年、スペインが2035年の脱原発を掲げている。
脱原発にすればすぐにうまくいくと思っているわけではない。

現実には、使用済み核燃料をどう処理するのかといった話を考えなければならない。
原子力発電の廃炉作業なども必要になってくる。
そうした現実的な話と、脱原発という理想的な話の折り合いをつけていかなければならない。

では、僕に何ができるのだろうか。
原発をどうにかするほどの規模のことはできないかもしれない。
でも、一つの地域に根差してやっていくと決めた僕が、その地域で再生可能エネルギーに取り組むことはできる。

特に、北陸という土地柄、曇天や雨天が多く、太陽光との親和性はあまり高くないだろう。
山があり、水資源が豊かにあるので、それであれば小水力発電の方がいいように思う。

小水力発電は、河川からの取水後、タービンを回して再度放水するため、バイパス区間での生態系に対する影響は当然調査しなければならないが、比較的環境負荷が低いものだと思っている。
一方で、小と付くように、規模が小さいため、まだまだ普及していないことも事実だ。

小水力発電で、エネルギーの地産地消を

2019年9月、関東圏における観測史上最大の台風が、千葉県を襲った。
睦沢町で停電が起こった際には、太陽光発電等を駆使して、道の駅に電力供給を行い、災害用非常電源としての有用性を発揮した。

9電力体制(北海道、東北、東京、中部、北陸、関西、中国、四国、九州での9つの民間電力会社による独占的な電力供給体制)による大規模な電力供給元の独占的な体制では、これからの日本は維持できないのではないかと思っていたりもする。

例えば、加賀を例に挙げるならば、北陸電力からの電源供給が途絶えてしまえば、それで終わってしまう。
加賀市内で電力が供給できれば、大規模な停電に対して、千葉の睦沢のような立ち居振る舞いが可能になる。
非常時に電源を供給できるようになっていれば、その地域のレジリエンスはある程度高いと言えるだろう。

さらに、北陸電力は富山にあるため、地域外への経済流出が大きくなってしまう。
加賀市民が稼いだお金が、そのまま富山に流れていくという構造になってしまう。
それを、地域内で循環させられた方が、よっぽど豊かになるのではないだろうか。
2年ほど前に、僕のゼミの先生でもある広井良典教授(こころの未来研究センター)と日立京大ラボ(日立未来課題探索共同研究部門)とで、宮崎県西諸県郡高原町で自然エネルギー自給と地産地消サプライチェーンによる経済循環とコミュニティの活性化を目指す自立的地域社会についての研究の一部を報告した。
その結果は、以下の通りだった。

既成の電力供給に比べ、自然エネルギーによる電力自給率が95%の場合、地域社会の経済循環率が7.7倍向上することが明らかになりました。

自然エネルギーでの電力自給率を高めることによって、経済循環率が上昇し、かつ用途としての非常用電源にもなり得るのだとすれば、それは積極的に行っていく必要があるのではないか。

それは、ただ単に、自然が好きな一個人の願望でもあり、原発事故のような平和や安全に対するリスクを脅かす要員を減らしていくことにも繋がっていく。
僕は、自然が好きであり、それを後世にまで遺していきたいと考えているし、そっちの未来の方がワクワクする。
誰かに頼っても、失望や絶望をするだけで終わってしまう。
自分が生きたい未来は、自分の手で手繰り寄せていくしかないのである。

だから、僕は、自分が住むと決めたこの加賀市で、小水力発電を行っていくのだ。

加賀での小水力発電について

僕一人では、本当に何もできなくて、現在先述した京都大学の広井良典教授や小水力発電の専門家の方々に助言や協力をいただきながら進めている。
加賀のことに関しては、移住したばかりでなかなかわからないので、地域の方々に本当にお世話になっている。

自分の手で手繰り寄せるなんて仰々しいタイトルをつけたが、本当は、みんなと共に創り上げていくという方がしっくり来る。
それでも、僕が旗を振らなければ、きっと誰も振らなかっただろう。

自分が生きたい未来があるから、そこに向かって誰かに語るところから始めるのだ。

今年の1月には、中日新聞にも載せていただいた。

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まだまだ、これから、仲間を募っていくところ。
そして、これから進めていくところ。

それでも、誰かがやらないと、誰もやってくれないから。

僕は自分が願う未来に向かって、走っていく。

仲間は随時募集中なので、ぜひ興味のある方、話を聞いてみたい等でも連絡いただければ幸いです。
profにTwitterへのリンクがあるので、ぜひそこから。

あとがき

僕は、名古屋で生まれ、京都で学生生活を過ごし、加賀に住んでいる。
親戚も含め、東北に直接的な縁があるわけでもないし、直接的に被害を被ったわけでもない。
僕なんかが震災や津波、原発事故のことを語っていいのだろうかと思って、なかなかこのnoteも出せずにいた。

日々の生活の中で忘れられゆくその脅威だが、首都直下型地震や南海トラフなどの脅威として続いている。
僕は名古屋で生まれ育ったが故に、南海トラフが来るぞと言われ続けて育った。
ずっと地震は怖かったが、東日本大震災を見て、余計に怖くなった。
地元には、親や友人がいるため、もちろん起きたとしてもできるだけ被害が少ないことを願うが、それでも起こるリスクは常にあるし、それが予見されているのが今だ。

僕が語っていいのかという不安に、自分なりに答えるならば、それでも地震大国日本では常に地震のリスクがあり、いつその当事者になるかわからない。
だから、やはり何か思っていることは語っていくしかない。
もちろん間違っていることもあるかもしれないが、その時は、その都度修正していくしかない。
学び続けて、語り続けて、動き続ける。

今の僕には、これに尽きる。

...

最後に、東日本大震災で被害に遭われ、亡くなられた方々へのご冥福をお祈りします。

僕自身は、同じ日本で遺された人間として、先人方から受け取った生命のバトンを無駄にしないように、日々を生きていきたいと思っています。

サポートしていただいたお金は、加賀、石川、日本海側を活性化させる事業に使わせていただきます!