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『子育ち歳時記』田中啓子 著


さあ、
子どもと
歩いていこう。

ちょっぴり肩の力を抜いて、
子供の歩幅で、
日々を過ごしてみませんか?
「親が自分を育てれば、
子どもも自分の力で育つ」を
モットーに、マイペースで
わが子5人を見守り続けた、
よろこびと
発見の記録。

『子育ち歳時記』帯より

ご縁あって著者様ご本人より手渡されいただいた本である。
今回このような機会をいただいたということで、紹介を兼ねて所感を述べることにする。(以下、敬愛を込めて著者様を「啓子さん」と記すことにする)

子供と生活していくことに気張り、不安を抱えているお父さんお母さんも、この本を読み進めていくなら、自らを"自人"と称する啓子さんの気楽さ、安らかさ、おおらかさ、優しさ、呑気さ、パワー…… などなどが伝染してくるであろう(笑)


「はじめに」より

まず、この本のタイトルは「子育」であり「子育」ではないのであるが、ここにこの本のエッセンスが読み取れるともいえ、啓子さんの人生観が現れているように思う。

「子育て」とか「育児」などという言葉はよく使われますが、どうも気になります。これらの言葉の中には「私が」育ててやっているとか、私の理想とする方向に育てていくという傲慢さがないでしょうか。
 親が四六時中、手や心をかけなくても、子どもは自分のなかに育つ力をもっているのではないでしょうか。

p3 「はじめに」より

自身を気張らせ不安にさせるのは「傲慢さ」である。人が成長していくことの一側面は事実を受け入れる「謙虚さ」を持つことである。それは同時に、自身に気楽さや安心をもたらすものである。

 子育ては数字を扱うようにはいきません。スパルタ式がよいときけば試し、放任主義がよいときけば、これも試み、姿勢の定まらない日々でした。あるとき、親の私が迷っていてはよくないと気づき、母や先輩の姿を見て、自分なりに自然体でよいと居直ったのです。

p2 「はじめに」より

啓子さんだってはじめは「子育て」に気張り不安を抱え、どのようにすれば良いのか模索していたようである。

〇〇育児、〇〇主義などとアッチコッチと目が向くのは、将来への不安を抱え「しっかり子育てしなければダメだ」という強迫観念による。

子どもを信頼して見守ればよい、と決心すると、余裕のようなものがでてきました。

p4「はじめに」より

子ども自身の育つ力を信頼したなら、「私がどうにかしなければダメだ」という傲慢さ、強迫観念が薄れ、気楽さ、安心が戻ってくるのである。


「いのち」より

啓子さんにお任せするそのまえに、44ページ「いのち」だけ紹介させていただくことにする。

 いのち 

小学校の授業参観を終えて、立ちっぱなしで疲れた足を休めていたときです。ラジオから、わが家の近くで人身事故があって、交通渋滞になっているというニュースが流れました。
 道でお巡りさんが事故の処理をおこなっていました。路上にころがったピンクの運動靴は私の娘(四歳)のものでした。頭の中は真っ白で血が全身を逆流したように思いました。

 幸い娘は無事でした。
 頭を打って数日入院しましたが、異常はなく助かったのです。兄弟が多く、彼らに鍛えられていたおかげでしょうか、車のボンネットがくぼんでいるのに娘に大きな怪我がなく、警察では奇跡だと言われました。

 それからの私は、命が助かったことがうれしくて彼女のなすことすべてを受け入れていました。もちろん、他の兄弟たちに対しても同じように向き合いました。
 いま「ある」以上にむさぼってはならないと知らされたように思えました。
"存在"に感謝するより、子どもたちの容姿や資質を含めて日頃、ないものねだりをしていないかと考えさせられたのです。
 そう言えば、最近、いのちを"授かる"と言わないで、子どもを"つくる"と言いませんか。気になります。"授かる"という言葉には、天とか神とかいのちに対する、畏敬の響きがあります。自然への感謝もあります。"授かる"と言う場合、私は謙虚な心持ちになれます。しかし"つくる"と言うならば、自分たちがつくったのだから「所有」し「管理」するのは「あたりまえ」という考えにつながるこわさを感じます。私たちは、子どもの血の一滴も、骨の一片もつくり得ません。
 お腹の中でいのちが動きはじめたときのあの感動を忘れまいと思います。夫と、その赤ちゃんの産声を、いのちを感じることができれば、子育ての大変さや楽しさを、共に担っていけるのではないかと思います。その上で、いのちを育んでいけることの幸せを夫婦ともども会得できればよいと思います。

p44「いのち」より



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