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Takramcastに出演したはなし。

先日Takramcastに出演しました。
まだお聞きでない方はぜひ一度聞いてみてください。

僕が出演させていただいたTakramcastは、JINSデザインプロジェクトで建築家のミケーレ・デ・ルッキさんが登壇したイベントをきっかけに、さまざまな想像を膨らませ、VRや漫画や現実と非現実の境界みたいなものも含めて議論を発展させていくものでした。

ここではそのなかで話した内容について少し補足しつつ、あの一連の会話をきいていただくときの僕なりの「見方」を提示してみたいと思います。

イベントでのミケーレの印象的な言葉に「我々はみな誰もが役者なのだ」というものがありました。人々はみな自分たちのイメージや像を作り上げ、そうした像のなかでふるまっているということだと思います。

「もしも「俺は服や髪型には興味ない」という人がいたら、「興味をもたないでいる」という一つのスタンスの表明であり、そういう役だといっていい」というようなこともいってました。「こだわらないというこだわり」ということだと思います。人は常に何かしらの役をまとっているし、演じてもいる。

そのうえでTakramcastでは、「人がみな役者で、建築はすべて舞台のようなものかもしれないですね」という話をしました。

たとえばオシャレな「シェアハウス的」な空間では、僕たちは「シェアしないといけない」と感じるかもしれません。そこは当然のようにシェアが行われるべき空間であり、話しかけられたら「やあ、元気?コーヒー飲むかい?」といわなければいけないような気がする。その空間自体は別に、シェアしろ、というわけじゃないけれど、シェアするべき空間であるようなイメージがあります。

それはある意味で虚構であるといっていいと思います。空間が本質的にシェアを強要するわけではありません。「シェアすべき空間」という僕らのイメージ、それが空間に見出される虚構でありそうしたイメージによって建築はある種の舞台装置になってしまいます。

実はそのあたりの話は、近年の社会の変化のなかで特に重要なことだと思っています。

SNSが広まり、インスタをはじめとするSNSは空間のイメージを肥大化させ、たくさんの舞台とたくさんの役をつくっているともいえます。

誰かがコンクリートの壁を背景にコーヒーを頭に載せて写真を撮り、それをインスタグラムに挙げて「いいね」が沢山ついたとする。みんながそれを繰り返し始める。コンクリートの壁を探し、コーヒーを買ってきて頭に載せ、写真を撮る。コンクリートの壁をみるとしばしばそうしたふるまいが頭に浮かぶようになるかもしれません。

虚構が舞台装置のように機能し、自分を違う役へと誘ってくれる。そのことによって僕たちは新しい自分を発見できたり、それまで知らなかった豊かさを得ることもできます。シェアしそうな空間にいることによって自分はシェアしそうな人間でいられるし、そういう役割が与えられることによって自分はシェアの良さを知ることができる。役者になるからこそ手を大きく動かしてみたりして、そうしてそのふるまいの気持ちよさや豊かさを知るということがあるのではないか、と。

そんなことを考えています。

考えてみると、これまでの社会の変化のなかで、僕たちは与えられた役割をひたすらこなしていく必要はなくなりました。男なら外で働かなければならないということはないし、女は家にいなくちゃいけないということもない。働きかたも多様になった。それはとても大きな自由にみえます。

けれどもその実、そうした自由は僕たちの役割を茫洋としたものにもさせます。僕たちは映画のなかのキャラクターになりきることによってさまざまな人生を体験するように、虚構によって生み出される建築という舞台装置の上でさまざまな役を体験していくことで、自分とはどういう存在であるかを探しているのかもしれません。

だから「想像と記録」や「現実と非現実」といったキーワードのなかで展開されるあの一連のお話は、社会の変化と自分のアイデンティティに関する議論の一部である、という見方でとらえてみることができると思うのです。「役」と「舞台」の関係だけでなく、「役」によってつくられる「自分」、「舞台」によってつくられる「役」、現実によってつくられてしまう「舞台」、現実と非現実の入り混じりについて。

マンガのファンのヒエラルキーのお話も、創作を通した自らのアイデンティティの形成と、ファンと作りての行き来のお話。

そんな風な見方で、もう一度castをきいてみてもらえたら、と思うのです。


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