見出し画像

1931(昭和6)年生の母の聞き書き回顧(2)

第2回分(10月9日初稿)

 初回で、母自身の一番古いと思われる記憶を聞いた話を最後に書きました。それは、波打ちぎわで、足を海水に浸して海に向かって立っていて、引く波によってかかとのあたりの砂が削られるくすぐったいような感覚でしたが、母の4つ下の妹が生まれる前のことなので、母は3つか4つだった頃のことと思われます。

 母が幼少期に逗子の借家に住んでいたということも前回の文章に書きました。その借家について、平屋で縁側があったこと、雨戸が家の隅の角で、直角に曲がるようにして移動する家だったことを、母の妹にも、またずっと後に私にも語ってくれていました。

 このイメージは捉えづらいと思います。ネット検索で、ミニチュアの建物模型で、ちょうどその雨戸の直角移動再現をしている動画を見つけたのでそのURLを貼り付けます。https://video.fc2.com/content/20170304usy1XHYq/ (出典のURLリンク、ご容赦下さい)この動画を見て、「なるほど!」と私も母の話していた雨戸の様子がわかりました。

 母が幼い頃に住んだ借家が逗子にあったということで、母の父(私の祖父)が少女時代の母に語った内容を私は母から聞いたことがあります。「明ちゃん(母は子供時代、父からそう呼ばれていました)は小さい頃、海岸で尾崎行雄に頭をなでられたことがあるんだよ」(詳細推測)と言われたと。

 1890年から1952年まで国会議員を務め、大正期の第一次護憲運動で桂内閣に対し「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と論陣を張り、大正の政変で桂内閣を退陣に追い込んだ尾崎行雄は東京市長だった時期もあります。憲政の神様とも言われていますが、逗子市に彼の記念碑があります。「昭和2年(1927年)70歳のとき、この碑の直ぐ下に「風雲閣」と名づけて居を構えた。」とあるブログには書かれていました。(出典URLにて失礼します)

( https://4travel.jp/travelogue/10837221 )

 母自身はもちろん、幼児期に尾崎行雄に逗子の海岸で頭をなでられたことを覚えていませんが、祖父(母の父)がそれを母に語ってくれたことで、私も、日本の議会政治史の巨人と母との一瞬の出会いについて思いを馳せることができました。逗子の海岸や、尾崎行雄記念碑を訪ねてみたいと思いつつ、この春からのコロナ禍で、それも今まで実現できていません。

 母の幼少期のこの「逗子時代」の記憶はとても限られているようですが、この家の玄関のところに置かれて(立てかけられて?)いた琴や母の母の歌った歌のことなどを次回(第3回)では書きたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?