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#深夜のみしぇ論 ぼくたちはひとりになりたくないから、最初からひとりを選ぶのかもしれない。

こんにちは、みしぇるです。

週末は日記とは違って少し長めで、さまざまなことに対するぼくの考えがわかるような文章を書こうかなと思います。

ぼくがインスタのサブ垢で不定期に更新している "深夜のみしぇ論" をさらに深めたようなものになればいいなと思っています。

note版の第1回のテーマは「付き合う」ということについて。
Instagramから文章を流用して加筆修正を行なっているので、文体が普段とは異なりますがあしからず。


ここにきて「付き合うとはどういうことか」という思春期さながらの疑問にぶち当たってしまった。

前提としてそもそもぼくには結婚願望がなく、当然のように子どもをもうけるということにもさらさら興味がない。これらの順番はどちらが先なのかはわからないけど。
もちろん今後この考えが変化する可能性はいくらでもある。この場合における「結婚願望がない」というのは、結婚という制度がそれ自体や理想の結婚生活といった概念と婚姻契約を結ぶものではなく、あくまでこのひととともに残りの人生を歩んでいきたいというようなひとが現れてはじめて結婚への願望が生じると考えているという意味である。

ただ、現在の日本社会において結婚という契約がほとんどの場合それ以前から続いている恋愛関係を土台として結ばれる傾向にある中で、結婚を望んでいないぼくとの恋愛はいわばゴールのないマラソンをするようなもので、あえて激しい言葉を選ぶのなら時間の無駄とすらいえてしまうわけだ。

そもそも少なくとも国内法において二人以上の人間と婚姻契約を結べず、またほとんどすべての人が最終的に最愛のひとりと生涯を添い遂げることを望む以上、恋愛経験などというものは1回のみで人生を終えるのが理想で、結婚に結びつかなかった恋愛はなくてもよかったとすら言えてしまうのだ。

もちろん以上は合理性という観点のみから恋愛や結婚を捉えた見方であって、ぼく自身これまで数多くあった実らなかった恋や添い遂げられなかった相手との時間を無駄なものなどとは一切思っていない。いまのぼくはそれらの上にしか成り立たないものだし、恋愛にともなう喜びや苦しみのそれぞれがぼくを育ててくれたと思えているからだ。

ただ、そのすべてに「この恋が最後になってほしい」という想いを抱いていたこともまた間違いない。なぜならいずれ終わると思いながら続ける恋愛なら最初からしない方がいいから。

さて前置きが長くなったが、「付き合う」という関係性について考えてみたい。
ありがたいことにぼくには一緒に遊んでくれる友だちが本当にたくさんいて、そんな彼/彼女たちのそれぞれをぼくは心から愛している。しかし、ぼくはそのうちの誰とも付き合っていないし、おそらくそんな関係性に名前をつけたところでこれまでとすることは変わらないと思う。
では「付き合う」となにが変わるのか。いまどき付き合ってなくても肉体関係があってもいいし、逆に言えば付き合っているからといって肉体関係も存在しなければならないなんてことはない。つまり肉体関係の有無も「付き合う」という関係性の必要十分条件とはならない。

結局「付き合う」という関係性を支えるのは独占欲ではないか。お互いの相手を自分だけのものにしたいという思惑が一致した結果、両者が合意の上でその関係性に恋人だとかの名前をつけることになるのだろう。

おそらくぼくがひっかかっているのはこの独占欲の部分だ。
そもそもぼくたち人間はひとりでも生きていける生き物で、そんな中あえて一緒に生きるという道を選ぶのが恋愛や婚姻関係だろう。この前提に立つ以上、恋人や夫婦といった関係性にあったところでお互いの個人としての人生がなくなるわけではないことは自明である。
そしてぼくは、ひとりでも生きていける強さをもった人間にいつも強く惹かれている。そうである以上、相手がぼく一緒にいることを選んだとしても相手の自由を制限するようなことはしたくないし、そんなこと本当はしようと思ってもできるものではないのに。

さて、長くなってしまったが以上の理由からぼくはいまあえて誰かと「付き合う」という関係性に収まることはない。というより、そもそも関係性に名前をつけるという行為の浅はかさにうんざりしているのだと思う。
人間関係はゲームの世界のように好感度が客観的に評価可能な数値として表れたりしないし、もちろんこれより先が友だちでこれより先が恋人でといったような単純な線引きにもそぐわない。あらゆる関係はあくまでもグラデーションのように緩やかに成り立つものだ。「友だち以上、恋人未満」という言葉ひとつとっても、恋人が友だちよりも上位の存在であるという前提の上に語られており、その構図に疑問を抱くべきでないのかと思っている。
形式ではなく実態を重視すれば、あえて関係性に名前をつけずとも自然に一緒に生きていけるのではないか。

いかがでしたか。
少し前に書いた文章ではありますが、いまもおおむねこの考えのままですね。

恋愛が面倒だとかそういう話ではないのですが、やはりかたちあるものは壊れるという考えにぼくは立つので、傷ついたり失ったりすることへの怖さがあるということでもあります。

多様な性のあり方や生活スタイルがすこしずつ受け容れられるようになった現代社会において、関係性に名前をつけることにどれほどの意味があるのか。みなさんはそういったことを考えたことがありますか?


しばらくはInstagramの文章を流用してみようと思います。
もしあるトピックについてぼくの意見が聞きたいというようなかたがいらっしゃれば、コメント欄や各種SNSのDMからお気軽にお申し付けください。

では、また。

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