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あるべき姿という罠にハマる

私は今年で34歳のおじさんですが、本当にあっという間に30代半ばです。自分が20代の頃に今の自分と同じくらいの人が30代はあっという間だと言っていた通り、本当にあっという間です。


ここ最近は、どんな人間になりたいかとか、夢をいつまでも持っていたいと思い自分自身のあり方についても考えまくっています。色んな本を読んで自分という人間がどういう人間なのかがやっと何となくですがわかってきました。

時々苦しくなります。

SNSやここnoteにも書いているように自分が思ったこととかを世界中の皆に届けたいとか、共感してくれる人いるかなとか、承認欲求が強いのは何となくわかっていました。

でもそのせいで自分の首を締めるというか、思っている以上に自分のことを気にかけてくれる人は少ないのに、毎日アップするのを目的にしていたYouTube用の動画を焦って作ったり、Instagramを更新してみたりして、いいねの数に阿鼻叫喚し、次はもっといいねって思ってもらいたくてまた更新・・・の繰り返し。

元々は日記感覚でmixi(ミクシィ)やFBを始めたのがきっかけで「何歳になっても自分のスタイルを変えずに、自分を発信していこう!」とSNS更新を何年もやっていました…が!

一時はやっていない人はほとんどいなかったのに、SNS離れが始まり、以前のように共感を得ていただけなくなったのが、自分を苦しめている原因でもあり、同時に目立ちたがりで人気者でいたかった8歳の少年〜34歳の現在に至るまで変わることなく続けてきた自分発信が興味を持たれなくなったことも要因のような気もする。

それもあって最近YouTubeの更新をストップしてます。

Youtubeは稼ごうと思えば稼げます。有名人とか人気者の名前を借りたらあっという間に何万人の登録者を得ることが出来るでしょう。でも、自分の目的はあくまで自己発信。特にテーマもなければ得意なコンテンツもない。

歌を歌ったりして少しチャンネル登録者数が増えたり

整形したことを公表したり

海外旅行で汚い治安の悪い街に行ってみたりして

再生回数が増えたりしました。でも、自分より歌上手い歌い手とかいくらでもいるし、面白い企画を思いつく人とか、世界旅行も面白おかしくやっている人とか、とにかくすごい人がいっぱいいることにビックリした。

そして同時に俺の時代、終わったなと思った。

というか、最初から始まってなかった。

実際に23歳の時にAUSに渡豪して世界を知ることで人間として成長できたこともあるけど、帰国して簡単に世界中と繋がれるSNSの影響で逆に落ち込む事も多くなった

SNSをやめれば楽になれる事も知っているし、動画を観ている方が楽なのも知っている。でも、これを辞めたら自分じゃないような気がして今でも何かしら続けてる。このnoteだってそうだ。

やっているうちに気づく事も多いが、実はSNSというのは使い方によってはストレス発散になる。

YouTubeの更新をやめて気がついた、あれは自分のためにやっていたんだよね。


動画をアップするとスッキリして、誰かの目に止まらないか、何かがきっかけになって有名になっちゃったりしちゃったりして!!と勝手にワクワクしていい夢が見れるといったカラクリだ。カラクリというのは違うけど、そういう風に使っている人は絶対にいる。それこそマズローが唱えた「欲求5段階説」の上から2番目の承認欲求、誰かに認められたいという欲求だ。

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上から2番目ってことは、それなりにすごいに違いない!

という語彙力のカケラもないことを思い、調べてみると

この第4段階の欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じます。

ほら!!


何が「ほら!!」なのかはさておき、やはりそれだけ重要な欲求で且つ妨害されると劣等感や無力感を感じるんじゃん!俺じゃん!俺のことじゃん!笑

妨害されたという気持ちはないけれど、満たされていないというのは事実だ。会社で認められないなら個人的に世間に認められて自信に繋げてやる!!とか思っていたんだろう。なんと浅はかだな俺は、でも至極人間らしい考えだ。どこかで承認されたいと思うのは自然なことだ。

俺以外の若者もきっと、ストレス社会において、承認欲求を満たすためにSNSで発信しているのかもしれない。いいねが欲しいとかね。

暴走族さながら「俺はここだ、ここにいるんだ!」と叫んでいるような気もする。現代版かまって珍走団w

暴走族

それもそうだが、気になったのは第一位が「自己実現欲求」であるということ。

第5段階:自己実現欲求
自分の世界観・人生観に基づいて、「あるべき自分」になりたいと願う欲求を指します。潜在的な自分の可能性の探求、自己啓発行動、創造性の発揮などを含み、自己実現の欲求に突き動かされている状態。また、第5段階だけはこれまでの欲求とは質的に異なっているとされています。マズローは最初の4欲求を「欠乏欲求」、最後の1つを「存在欲求」とまとめており、自己実現を達成できた人は数少ないとされているようです。

つまり、承認欲求からくる「いつか金持ちになってやる」とか「会社で出世してやる!」とかか!

と思ったけど、ちゃんと読むとそうではないのかな?と思うのがこのフレーズ、そう

「あるべき姿」


これってもしかして、かなり深いんじゃねーかな。と思った。

だってあるべきって誰が決めるのか?って自分じゃんね。あなたはこうあるべきだなんて誰かに言われても、昔は上のいうこととか親の言うことって通用したかもしれないけど、今じゃ「は?」ってなるじゃん。

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↑僕です。関係のない写真を載せてすみません。

この「あるべき姿」というのを見失うと、俺のように苦しい気持ちになるんじゃないかなと思ったりしている。

どういうことかというと、自分の理想というものの設定をタイミングで変更しないといけなくなるなって思った。

俺に置き換えれば、会社で認められつつ家族も養って、そんでもってYouTube動画でちょっとメディアなんか出ちゃったりして、それで有名になっちゃったりして、何年か困らないくらいの貯金が出来ちゃったりして、その結果海外を家族で放浪しちゃったりして、最終的に住みたいところに住む。というのが理想だとしよう。

でも現実的に考えて、YouTubeの登録者数は613人(2021年6月4日時点)でメディアも最近は全く出てないし、コロナ禍で海外旅行とか言ってる場合じゃないし、そもそも会社でも怒られっぱなしだし、もちろん昇給もしないから貯金も増えない。

いつのだよ

↑真ん中が俺。メディアに出てた頃

これって自己実現欲求全く満たされてないよね?

そりゃ苦しくもなるわな。目標と遠くかけ離れてるわけだし。

でもね、幸せか不幸せかで聞かれたら幸せなんだと思う。何故なら悩んでいる理由が生死に関わることじゃないから。

明日食べるものがない、暮らす場所がない、家族もいなくて天涯孤独。とかじゃないし、可愛い息子と嫁さんと新築の一戸建ても車もあるしお掃除ロボットも買ったばかりだ。

とまぁ自慢話は嫌われるのでこの辺にしておいて、不幸な人よりは幸せなはずなのに、

何故こんな不幸感を感じてしまっているのか?

それは自分の幸福度の問題だ。ということに気付かされた。

SNSが浸透したお陰でかなり楽しい思いもさせてもらったが、同時に誰でも注目を浴びられる時代なのに注目を浴びられないことが苦に感じているのも事実。

じゃあ、辞めればいいじゃんそんなの。ってなるでしょ?

それだとなんか負けた気がするというか、自分の水準を下げている感じが嫌なの。アプリを消すことで妥協したくないの。

完全に観る側にシフトチェンジすればいいんだろうけど、みんなに「俺はこんなこと考えてるよ!」とか「こんなもの食べたよ!」とか「こんな場所に行ったよ!リア充でしょ!」と言った誰も求めていない報告がしたいのだ。そこにそんなに理由はなく、イベントごとなんかを記録しておくついでに他人にもお裾分け的な考えだ。

でも俺の他の人と違う部分は、それによって何かの目に止まって、それがきっかけで…みたいな違った欲もあったりするから厄介だ。

だから捨てたくても捨てられない。何故なら大きな理由として、実際にSNSが起因していい思いを経験してしまったから。

YouTubeの歌動画を見た番組からスカウトが来たり、なんかの動画を見てくれた人から番組出演のオファーがあったり

いつのだよ

(↑この頃はりゅうちぇるが多忙を極めていた頃で朝からの収録で眠そうだったけど、俺のことをマッキーとか呼んでくれて、他の人も礼儀正しく優しくて好感が持てた。葉加瀬さんかゆしんさんがめっちゃいい匂いだった。笑)

そう言ったラッキーが実際に身に起きてしまったもんだから期待せざるを得ない。ひょんなことからモニタリングにも出させてもらって「もえあず」に惚れてしまったこともあったしw

そんな事もあって、人生何が起きるかなんてほんとに分からないなと思ったし、希望を持ち続けている方が、ないよりはマシかなって思う。

自分みたいな例はあんまりないかもしれないけど、かと言ってSNSに縛られて挙げ句の果てに自分の欲求に首を絞められるみたいなことはあってはならない。「あるべき姿」ではない。

でもビビって何も発信しないのも「ありたい姿」ではない。

何事もほどほどにしないとズッポリハマってろくな事がないのは言うまでもないし、自分の厄介な性格のせいで自分だけじゃなく他の誰かも知らないうちに不快にしてしまっているかもしれない。先に挙げたYouTube動画も、再生回数だけ見れば多いものの、いいねの数よりも低評価の方が全然多い。

最初は盛り上がっていたYouTubeも、沢山の人が利用する媒体であるのと同時に、コメント欄にいる人らの民度が低いのは業界では有名な話だ。俺自身も相当色んなバッシングを受けた。

最初は嫉妬心やふざけ半分で低評価されているとばかり思っていたが、今になってもう少しちゃんとマーケティングすればいいと思ったし、中途半端なことを言えばローカルの人の怒りを買うのは至極真っ当だ。

そう思ってちゃんとした動画もアップした。

しかし、こちらが正しい情報を言っているつもりでも、内容はさておき「なんて言っているのかわからない」とか、「スマホのバージョンが変わったら保存出来ないぞ」とか、俺はサービスデスクじゃねーよとか思いながらも、こちらもやっぱり低評価の方が多いのが事実である。

総再生回数は780,000再生で当初の目的である「注目を集める」ことには成功しているが「役に立っていない」という事実もここに来て顕著に出てしまった。

しっかりと事前に情報を調べて、適当なことを言わないようにすればいいだけなのに、それさえも一つの作戦のように敢えて突っ込まれそうな言い方をしたりしている。

俺は正に「神聖かまってちゃん」なのかもしれない

という事にも気付かされた。

いいねとか低評価は正直あんまり気にしてなかったが、7年前に初めて投稿してから今日まで登録者数が613人というのも、要するにそう言う事だ。求められていないのだ。

売れてるチャンネルは一つの物事に対してこれでもかって深堀して調査して自分なりにまとめて喋っているが、俺のはバラバラコンテンツで当たり回と外れ回があり、おそらく当たり回というのはちょっとしたエロ要素が絡んでいる。要するにサムネ詐欺だ。

サムネ詐欺で何が悪い!

と開き直る事も可能だ。サムネイルはあくまでパッケージだし、食べてみて美味しかったら無料なんだし見続ければいい。きっかけのひとつなのだ。

また、登録者に聞いた事がないので分からないが、恐らく海外に行った時とかの動画をアップすると登録者が増えていたので俺の伸ばすべきコンテンツは「旅動画」という事になるが、今はほとんど行けていないのと、一人で出かけると奥さんもいる手前ちょっと後ろめたいのだ。

子供が生まれる前は遊びに行ってもいいって言ってたけど、いざとなったらやっぱりダメな雰囲気になるのね。とほほ。

新しいコンテンツを探しながら、自分らしく表現ができる日を楽しみにしている。

長いしまとまりがないが、今日はこの辺で。

ほいだら。



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