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すでに使っていること

AIの進化でどんどんと便利になっている。活用方法も多様だが、ほとんどが今の検索エンジンを活用することの延長線上にしかならないのではないのだろうか?

例えば、僕がしがない料理人で、バズるレシピをAIに想像してもらうとしよう。きっと、インスタグラムとか若い子に受けているSNS、HP、インフルエンサーとか、さまざまなウェブにある情報を検索し統合しそれを一つの回答として提案してくれるだろう。ここで一つの疑問に出会う。これって、現時点での最適解であって、未来の最適解であるかは誰が保証してくれるのだろう?今現時点の話であり、それが未来を語ってくれるのか?それはできない話だ。未来の予測ができないことは既知の事実だ。

この行為を人類の作業に置き換えると、インターネットの検索ページで調べて、コピペしたり、図書館で書誌を引っ張って引用する準備をすることと何ら変わりがない。私はAIを否定したいわけでは一切ない。大学生、社会人といやというほど調べ物をしてきたし、その作業は苦しくて時間がかかる。情報の検索、統合という行為をAIが代替してくれるということはこれ以上ないことだと思う。

とどのつまり、AIがやっているとは人類の学びの営みを自動化しているだけであり、その容量が人類の限界をはるかに超越しているだけではないか?というである。とてもすごいけど、すごくない。たとえば、自動生成ツールで出てくる文章や画像はまだまだ過去の剽窃の危機をはらんでいる。しかし、人類の芸術も模倣がないとも言えないので、いきなり機会にまで完全なオリジナルを望むのはアンフェアかもしれない。

これから何かにつけてAIが生活に入ってくることは間違いない。AIはカスタマイズもされ、利用者にぴったりと寄り添うだろう。それは便利だし人類を豊かにしてくれるだろう。その時に自分はどう思うのか、何をしたいのか、そういった考えをもって利用することがAIの活かし方になるのだろう。AIのささやきに身をゆだねてしまったら、自分とは何者なのかが少しずつあやふやになってしまいそうだ。その時には人間にはLANケーブルが刺さっているかもしれない。マトリックスの世界みたいに。

#AIの活かし方

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