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【小説:1,823文字】運の良い男

 いつだったか、"運"という言葉を知った時から気づいていた。俺は運がいい。
 たとえば小学五年生の運動会。五年生は毎年騎馬戦をやるのが常だったが、俺は騎馬戦には絶対に出たくなかった。乗るならまだしも、乗られるなど御免だったが、身長も高く体格も悪くなかった俺は、どう考えても乗られる側だったからだ。ある日、どうにかして騎馬戦に出ない方法はないものかと思案しながら歩いていて、うっかり側溝に落ちて足を挫(くじ)いてしまった。医者からは、「少なくとも一週間は安静にしておくように」と言われた。運動会の三日前のことだった。
 中学三年のテストの日のことだ。俺はうっかり数学のテスト範囲を間違えて勉強していて、テスト前に声をかけてきた友人の発言からその間違いに気づいた。だがしかし、すでにテスト当日、どうしようもない。国語のテストを終え、理科のテストを終え、体育のテストを終えた頃に腹が痛くなってきた。昼食も食べずに保健室で休んでいる間にも、腹はどんどん痛みを増していく。俺はとうとう救急車で運ばれることになった。盲腸だった。

 勉強することは嫌いではなかった。休み時間には常に誰かが、何か教えを請いにやってきていた。放課後、女生徒に呼び出され告白をされるというようなことも、少なからずあった。教師にも親にも褒められ、周囲からは尊敬と憧れの眼差しを向けられる。
 良い成績を取ることで得られるものは大きかった。

 俺は当然、いい大学へ入り、勉強が疎かにならない程度にアルバイトも経験し、これぞ青春と言うような男同士の気軽な付き合いでストレスを発散しながら、女性に不自由することもなく健康的に過ごし、業界では有名な大手企業への就職もした。
 その間もずっと、ここぞというピンチの時には、常に俺の"運"に助けられてきた。一度などは、二股していたことが片手間の遊び相手にしていた女性にバレてしまい、危うく修羅場になるかとヒヤヒヤしたものだが、あわや本命の彼女の前でいろいろとぶちまけられてしまうのかという寸前に、彼女もしっかり俺と別の男を天秤にかけていたようで、その男性が乗り込んできたことにより俺の浮気は本命の女性にバレることなく事なきを得た。
 就職についてもそうだ。これは入社した後に聞いた話なのだが、俺はこの会社への就職ができなかった可能性もあったらしい。社長の息子が入社する予定で、同部署予定の俺の採用は見送られる可能性があったというのだ。だが、社長の息子は入社してこなかった。話によると、早々に自分の会社を立ち上げたためだという。将来的にどうなるのかはともかくとして、結果俺は無事に入社、希望の部署で働いている。

 人には必ず"運"というものが付いて回ると思う。営業へ配属された同期は、たった一件の契約数の違いで部署内最低の成績だと叩かれて辞めた。
 学生時代の友人に久しぶりに会ってみると、当時の姿は見る影もなく、同じ年とは思えないほど瘦せ細り、明らかに全てが衰えていた。何があったのかと尋ねると、気が付いた時には彼女の借金の保証人になり、彼女は手あたり次第金目の物を持って消えており、残ったのは借金のみ。それも簡単には返せる額ではなく、さらには実家の親が倒れ、果ては働いていた会社が倒産。今は新しい会社で働いてはいるものの、給与は以前の会社の半分近くにまで減っており、しかし副業しようにも残業残業の日々でその余裕はなく、もうどうしていいのかわからないと頭を抱えるばかりだった。
 友人として、黙って見ているには忍びなく、だからと言って俺に出来ることは限られている。俺にも、俺にできること以上のことにエネルギーを注いでいる余力はないのだ。その時の俺にできたのは、せいぜい手持ちの金を友人に握らせ、信用の出来る弁護士を紹介することだけだった。それでも、彼に渡すことの出来る金が手元にあったことは、やはり運が良かったとしか言いようがない。この金がなかったら、俺は友人のために何もすることができず、自分の無力さと虚しさに落ち込み続けることになっただろう。

 俺は運がいい。
 今夜は結婚して3年目の記念日だ。娘ももうすぐ1歳になる。
 幸せを噛みしめながら、ふたりへのプレゼントを抱え、青信号を渡る。
 都会の夜は明るい。
 俺に向かって突っ込んできたトラックに気づいた時には、跳ね飛ばされて即死していた。

 痛みを感じる間も、何かを後悔する間もなく、何ひとつ苦しみを感じぬまま、死んだ。

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